『CUBE』(1997年/ヴィンチェンゾ・ナタリ)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『CUBE』(1997年)は、ビンチェンゾ・ナタリ監督の長編デビュー作。低予算ながら秀逸なアイデアと圧倒的な演出力で、世界的メガヒットを記録した。ある日突然、無機質な謎の立方体に閉じ込められた年齢も職業もバラバラな6人の男女。隣接する部屋には想像を絶する残虐な殺人トラップが仕掛けられており、彼らは部屋に刻まれた「素数」の法則を手がかりに、出口のない迷宮からの脱出に挑む。
幾何学的な死の迷宮と、剥き出しになる多層的な人間性
正直申し上げて、映画の中で健気に頑張る可憐な女性が、理不尽に、しかもあっさりと惨殺されてしまうような展開は、僕は好きくない。そしてこの『CUBE』(1997年)も、完全にその系譜を継いでいる。
高度な数学的知識を駆使して迷宮の謎を解き明かす、キュートなメガネ女子・レヴン(ニコール・デ・ボア)が最後に迎えてしまう、あの無惨な最期。その後味の悪さと胸糞の悪さは、映画史においても特筆すべきトラウマものだ。
だがそんな感情的な反発を一旦脇に置いて、本作の骨格を解剖すれば、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督が仕掛けたこの着想がいかに理知的であるかは、認めざるを得ないところ。
巨大なCUBEに閉じ込められた、互いに素性の知れない男女6人が、次々と襲いかかる残虐な殺人トラップをかわしながら脱出を図る。これ以上ないほどシンプルで研ぎ澄まされたコンセプトを軸に、極限状況に陥れられた人間たちの内面ドラマと、パズルを解いていくような論理性が、不可分にして完璧に絡み合っているのだ。
彼らは、上下左右にある6つのハッチの1つを選んで新しい部屋に移動していく。トラップの有無を靴を投げて確認し、部屋に刻まれた謎の数字の羅列から安全なルートを導き出す。
しかし、この映画の真の恐ろしさは、物理的なトラップの残酷さ(冒頭のワイヤーによる人体スライスは怖すぎ!)にあるのではない。部屋を移動するたびに、少しずつ登場人物たちのパーソナリティーが全く違う裏の顔をみせていく過程にある。
当初、頼れるリーダーとして振る舞っていた警察官のクエンティンは、脱出の糸口が見えない絶望と疲労の中で、次第に隠し持っていた自己中心的な凶暴性とサディズムを剥き出しにしていく。
一方で、ただ泣き叫ぶだけの臆病な女子大生だと思われていたレヴンは、部屋の番号が素数であるかどうかがトラップの有無を示していることに気づき、さらにはデカルト座標を用いた天才的な数学的思考を披露して、一行を牽引する絶対的な知性の要となる。
彼らは決して、パニック映画にありがちなおざなりでステレオタイプな人物造形ではない。まるで彼らが閉じ込められたルービックキューブのような空間と同じように、カチャリカチャリと部屋が切り替わるたびに、彼らの内部に隠されていた別の側面(人格)が容赦なく噴出するのだ。
器(CUBE)が多層的なら、そこに放り込まれた人間もまた、恐ろしいほどに多層的なのである。
不条理が極限まで高める映画的純度
この作品が、当時の映画界に衝撃を与え、「新感覚不条理サスペンス」や「ソリッド・シチュエーション・スリラーの先駆者」などという、分かったようでよく分からないキャッチコピーを頂戴している最大の原因は何か。
それは物語の終幕に至るまで、結局のところ「なぜ彼らはここに閉じ込められたのか」「なぜこの6人が選ばれたのか」、そして「一体誰が、何のためにこの巨大な建造物をつくったのか」という根源的な謎が、一切明快に提示されないからだ。
通常のサスペンス映画であれば、最後に黒幕が登場し、「お前たちは過去にこんな罪を犯したから、その罰としてここに集められたのだ」的な、因果応報的なカタルシスが用意されているもの。
つまり、ドラマを構築するうえで必須ともいえる5W1Hのうちの、「WHY」に対する回答である。だが本作は、その「WHY」を完全に、そして意図的に放棄している。
劇中盤で、このCUBEの外壁設計に関わっていたというワースの口から、「奴ら(政府や巨大な組織のことらしい)によって器自体はつくられたものの、誰も全体像を把握しておらず、このまま放置しておくと無駄な公共事業になっちゃうから、とりあえず適当に人を入れただけ」という、超曖昧な説明がなされるのみ。
ただ巨大なシステムだけが形骸化して暴走し、責任の所在が完全に消失した、官僚主義的な悪の成れの果て。ハンナ・アーレントが唱えた「悪の凡庸さ」を、SFスリラーというフォーマットに落とし込んだこの冷徹な設定こそが、本作の真の絶望なのだ。
この背筋が凍るような無根拠性と不条理感は、かつてスティーヴン・スピルバーグが放った傑作『激突!』(1971年)における、動機なき大型トラックの恐怖と完全に同質のものだ。
なぜ追われるのかという理由が剥奪されることで、観客は理不尽な暴力そのものと直接対峙させられる。この「WHY」の欠落こそが、逆にサスペンスとしての緊張感を持続させ、映画としての純度を高める装置として作動しているのである。
ルービックキューブとしての人間──絶望の果てに残るもの
彼ら6人には、それぞれどこかしら「裁かれるべくして裁かれるのだ」という後ろ暗い原罪の意識、あるいは社会的な欠落があるようにも見える。
しかし、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督は、この物語を安っぽい道徳的な断罪の場に焦点を当てることは決してしない。本作はあくまで、絶望的な箱庭の中に放り込まれた実験動物たちが、いかにして生き残り、あるいはいかにして狂い、自壊していくかを観察する、冷酷なシミュレーションなのだ。
幾何学と方程式で積み上げられた、数学的で無機質な世界観。そこに、逃げ場のない密室ドラマという、最も人間の本性が垣間見えるプロットを併せ込んだ本作は、戦略勝ちの作品だ。
驚くべきことに、この映画の撮影に使用されたセットは、たった一つ(正確には1つ半)の部屋しか存在しなかったという。壁のパネルの色(赤、青、緑など)を照明のフィルターとセットの差し替えによって変更し、カメラアングルを工夫することで、まるで無限に連なる巨大な迷宮の中を移動しているかのように観客に錯覚させていたのだ。
極限まで制限された低予算の閉鎖空間を、監督の圧倒的なアイデアと数学的知性によって、無限の広がりを持つ映画的宇宙へと反転させたこの手腕は、見事としか言いようがない。
映画のラスト、サヴァン症候群的な素数計算能力を持っていたカザンだけが、白く光り輝く出口へと歩み去っていく。理性に溺れた者、暴力に支配された者、虚無に囚われた者は皆、CUBEの内部で血を流し、永遠の迷宮へと飲み込まれていった。
人間の知性や倫理など、巨大な不条理の前ではなんの役にも立たないという、この徹底したニヒリズム。映画としての完成度と、サスペンスとしての切れ味は、間違いなく一級品なり。
だが、どんなに映画的戦略が優れていようとも、どんなに不条理のテーマが深く突き刺さろうとも、出口を目前にして、あんなにも健気に計算を頑張っていたレヴン嬢があっさり惨殺されてしまう結末だけは、どうしても好きくなれない!
- 監督/ヴィンチェンゾ・ナタリ
- 脚本/ヴィンチェンゾ・ナタリ、グラハム・マンソン、アンドレ・ビジェリッチ
- 製作/メーラ・メー、ベッティ・オァー
- 製作総指揮/コリン・ブラントン
- 撮影/デレク・ロジャース
- 音楽/マーク・コーヴェン
- 編集/ジョン・サンダース
- 美術/ダイアナ・マグナス
- 衣装/アネッタ・アレン
- CUBE(1997年/カナダ)
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