しかし途中でその一人称が消滅して三人称に置換されてしまうと、読者は物語を牽引する船頭を失って混乱してしまうことも、また自明の理である。
もちろん、このような手法を意図的に使って成功している作品は多々あるんだが(特にミステリー小説など)、緻密な構成力と優れた演出力が前提になる訳で、えてして失敗するケースがほとんど。
『白いカラス』は、ピュリッツアー賞作家フィリップ・ロスのベストセラー小説『The Human Stain』を、『クレイマー、クレイマー』の巨匠ロバート・ベントンが映画化した作品なのだが、これがびっくりするぐらいに多重視点のドラマ。
ゲイリー・シニーズ演じる小説家ネイサンのモノローグで映画が始まるので、てっきり彼の視点でドラマが進行するものと思いきや、途中で死んだのかと思うくらいにドラマに関与しない(っていうか出番がない)ので、事実上アンソニー・ホプキンス演じる大学教授コールマン・シルクを主軸にドラマが進行。
ところどころニコール・キッドマンやエド・ハリスに焦点を合わせた三人称的視点も挿入されつつ、最後はまたゲイリー・シニーズの視点に戻るという、非常にアクロバティックな構成なのだ。
2時間に満たない上映時間で扱わなければならないテーマが「人種差別」「幼児虐待」「心的外傷後ストレス障害」と多種多様(しかも重い!)。
おまけにアンソニー・ホプキンスの青年時代のエピソードも回想形式で描かれたりするので、現在→過去を行き来する時制も入り組んでいる。
黒人差別と捉えかねない発言で、大学教授の職を追われざるを得なくなったアンソニー・ホプキンスが、実は白い肌をした黒人だったという「人種差別問題」が一応ストーリーの核だと思われるんだが、多重視点の多重構造、おまけにテーマも多重とあっては、観ているこっちは何のこっちゃ分からない。
ウェントワース・ミラー演じる青年時代のエピソードはなかなか秀逸なだけに、アンソニー・ホプキンスの半生に焦点を合わせたほうが構造的にスッキリしたと思うんだが、どーにもこーにも映画のリズムにノリきれないのだ。
いろいろ気になったので、脚本を書いたニコラス・メイヤーについて調べてみたら、『スター・トレック』映画版の監督・脚本・製作を務めていた人物で、どう考えても文芸作品畑の人ではなさそう。
作中人物がそれぞれ深刻な問題を抱えていたように、『白いカラス』というフィルム自体も、深刻な問題を抱えているようである。
- 原題/The Human Stain
- 製作年/2003年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/108分
- 監督/ロバート・ベントン
- 製作総指揮/ロン・ボズマン、アンドレ・ラマル
- 原作/フィリップ・ロス
- 脚本/ニコラス・メイヤー
- 撮影/ジャン・イヴ・エスコフィエ
- 音楽/レイチェル・ポートマン
- 美術/デヴィッド・グロップマン
- 編集/クリストファー・テレフセン
- 衣装/リタ・ライアック
- アンソニー・ホプキンス
- ニコール・キッドマン
- エド・ハリス
- ゲイリー・シニーズ
- ウェントワース・ミラー
- ジャシンダ・バレット
- アンナ・ディーヴァー・スミス
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