「過去」と「現実」の交錯。老人の心象風景を描き出したロードムービー
当時弱冠39歳、人生まだまだ勉強中のイングマール・ベルイマン。そんな若造が、“老人の孤独”という身分不相応なテーマに挑んだのが、『野いちご』(1957年)である。ベルイマンは老人の心象風景を描き出すにあたって、ロードムービー形式を選択した。
気難し屋で厭世的な生活を送っている老医師イーサク(演じるのは、スウェーデン映画のサイレント期に名声を馳せた名監督、ヴィクトル・シェストレム!)は、長年の功績が称えられ、名誉博士号を受けることに。
授与式の当日の朝になって、飛行機ではなく車で向かおうと心変わりし、授賞式会場まで息子の嫁であるマリアンヌと一緒にドライブをする。その道程を、「過去」と「現実」を同一線上に並列させるトランジション・ショットを巧みに挿入することによって、彼のこれまでの人生を観客が追体験できるような語りになっているのだ。
「過去」と「現実」を行き来させるという、いささかトリッキーな構成を発動させるために、触媒的な役割を果たしているのが、ひょんなことから一緒に同乗することになった若い男女3人組。
特に、天使のような爛漫さでイーサクのねじれた心を解きほぐしていく女の子が、かつて結婚を約束していた従姉妹のサーラとそっくりであるという事実が、「過去」と「現実」をシームレスに繋いでいく“結び目”となる。
やがて彼は封印していた「過去」を蘇えらせる。サーラがイーサクの偽りの優しさに嘆いて弟と結婚してしまい、妻となったカーリンも満たされぬ想いを感じて他の男性と不貞を重ねていたという、拭いさりがたい記憶。その心の闇は、強烈ナイトメアとして冒頭から提示される。
それはまるで、サルバドール・ダリの精神風景を映像化したかのような、シュールな白日夢的イメージ。時間が止まったがごとく人気のない町並み。強い日差し。針のない街の時計。棺桶に入っている自分の死体。「生きながら死んでいる」とマリアンに看破されたイーサクの、絶望と虚無に彩られた孤独感が、ソリッドにビジュアライズされている。
しかし物語が進行し、老医師の孤独が解放されていくと、「過去」の悪夢的イメージは春の日差しのように穏やかな世界に置換される。野いちごの森からサラが現れてイサクを入江に連れて行くと、そこでは父親が静かに釣糸を垂らし、その傍らで母親が本を開いている…。
その平和的かつ静謐なラストシーンの美観は、まるでモネの印象派絵画のごとし。額縁に飾りたくなるぐらいにフォトジェニック!
人生というものは美しい記憶と風景さえあれば、心安らかに生きていけるものかもしれない。当時20歳の大学生だった僕は、学校のイメージ・ライブラリーでこの作品を観て、そんな感想を持ったものだ。
ベルイマンがこの映画を撮った39歳になったとき、果たして僕はこの映画に対してどのような言葉を紡げるだろうか。『野いちご』を真っ当に語れるようになれば、僕もいっぱしの大人だということだと思います。
- 原題/Smultronsta¨llet
- 製作年/1957年
- 製作国/スウェーデン
- 上映時間/91分
- 監督/イングマール・ベルイマン
- 脚本/イングマール・ベルイマン
- 美術/ギッタン・ダスタフソン
- 音楽/エリク・ノルドグレン
- 撮影/グンナール・フィッシャー
- ヴィクトル・シェストレム
- イングリッド・チューリン
- グンナール・ビョルンストランド
- フォルケ・サンドクィスト
- ビビ・アンデション
- グンネル・リンドブロム
- オーケ・フリーデル
- マックス・フォン・シドー
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