『ナイト&デイ』──トム・クルーズとキャメロン・ディアスが演じた“存在の輝き”
『ナイト&デイ』(原題:Knight and Day/2010年)は、ジェームズ・マンゴールド監督によるアクション・ロマンスで、トム・クルーズとキャメロン・ディアスが再共演する。CIAの追跡から逃げる男女が、銃撃と恋を交錯させながら世界を駆け巡る。だが本作の核心は物語ではなく、スターそのものの存在感だ。80年代から続くトム・クルーズのヒーロー像、そしてキャメロン・ディアスの奔放な明るさが、過去のハリウッド的“夢”を再演する。リアリズムを排した“存在の演技”によって、映画が記憶の芸術であることを改めて証明した。
変わり続ける女優、変わらないスター
1970年代末から80年代にかけて、女性像は劇的に変化した。
『グロリア』(1980年)のジーナ・ローランズ、『エイリアン』(1979年)のシガニー・ウィーバー、『羊たちの沈黙』(1991年)のジョディ・フォスター。かつて刺身のツマのように“男性の冒険譚を飾る存在”だった女性たちは、やがて知性と独立を備えた「強い女性像」として銀幕を駆け抜けた。
フェミニズムとポップカルチャーが交錯する時代、ハリウッドはようやく「男性を支える女」ではなく、「自ら戦う女」を主役に据えはじめたのである。
だが、その潮流のただ中でキャメロン・ディアスという存在は異質だった。彼女は“知的化”の波を潔く拒み、愚かさと明るさを武器にスクリーンに立ち続けた。
『メリーに首ったけ』(1998年)で精液を髪につけ、『イン・ハー・シューズ』(2005年)で奔放なセックスを演じる。アクトレス総知的化の時代に、彼女はひとり“痴的化”の旗を掲げ、観客の笑いと欲望を引き受けていた。
21世紀に入り、ハリウッドは「ジェンダーの再編」を迫られた。スカーレット・ヨハンソンやナタリー・ポートマン、フローレンス・ピューらは、知性・脆さ・自己決定を併せ持つ女性像を演じ、現代の倫理的ヒロインを体現した。
彼女たちは、役柄に“意味”を与える女優である。だがキャメロン・ディアスは、意味を拒む。彼女の魅力は、空っぽであること、思考よりも反射で動くこと、そしてバカバカしいまでに自分をさらけ出すことにある。
それは逆説的に、70年代のジーン・ハーロウやキャロル・ロンバードの喜劇的伝統を継ぐ女優の再来でもあった。フェミニズムの到達点とは別の地平で、彼女は“愚かさの解放”を演じ続けている。
一方、トム・クルーズもまた“変わらないこと”を選んだ俳優だ。『トップガン』(1986年)で獲得したアメリカン・ヒーロー像を、彼は40年にわたり変化させず演じ続けている。
50歳を過ぎても筋肉を鍛え、笑顔を磨き、青春の香りをまき散らす。「トム・クルーズ」は、役ではなくジャンルそのものになった。
俳優が時代に合わせて自己を更新するのではなく、時代が俳優の幻影を反復する。それがスター・システムの原型であり、クルーズはその最後の生き証人である。
その意味で『ナイト&デイ』(2010年)は、アクション映画の形式を装いながら、実は“スター・イメージの終焉”を描くメタ映画でもある。物語の記憶は曖昧でも、スターの残像だけが網膜に焼きつく。観客が見ているのは物語ではなく、“トム・クルーズという物語”なのだ。
テンプレート化したスパイ・アクションの快楽
『ナイト&デイ』のプロットを要約すると驚くほど単純だ。陽気なスパイのトム・クルーズが、陰謀に巻き込まれた一般女性のキャメロン・ディアスを連れて、逃亡劇を繰り広げる。銃撃戦、カーチェイス、裏切り、爆発、そして恋。──それだけ。
この映画には、観客の予想を裏切る“物語的仕掛け”がほとんど存在しない。むしろ、あらゆる展開が「ハリウッド的スパイ映画とはこういうものだ」という共通認識に従って進む。
『ミッション:インポッシブル』の余熱、『ボーン・アイデンティティー』の断片、『ロマンシング・ストーン』のリゾート感。全ての要素が、既知の映画記号の引用として配置されている。だが、それこそがこの作品の魅力であり、メタ的な意義でもある。
『ナイト&デイ』は、観客の記憶に蓄積されたハリウッド映画の断片を再編集することで、「スパイ映画というジャンルそのものを演じている」。物語の登場人物が“スパイ”を演じるのではなく、映画そのものが“スパイ映画”を模倣しているのだ。まるで映画が自分自身のパロディを演じているかのように。
キャメロンが悲鳴を上げ、トムが銃を撃ち、敵が吹き飛ぶ──そのリズムはあらかじめ記号化された美学であり、脚本というより「映画のコードの実演」である。
この自己模倣的構造は、ハリウッドが21世紀に入ってから繰り返し直面してきた問いを象徴している。「観客は、物語を見たいのか、それとも“映画であること”を見たいのか?」『ナイト&デイ』の答えは明快だ。観客は“映画の夢”そのものを見たい。だから、どんなに凡庸な展開でも、その“型”が正確であれば幸福なのだ。
トムとキャメロンが演じるのは、ふたりのキャラクターではなく、ハリウッドそのものの亡霊なのだ。
スタア至上主義の残照──老いと光の演出
『ナイト&デイ』で描かれるのは、もはやリアリズムではない。トムとキャメロンは、ありえないほど陽気に弾丸を避け、恋をし、笑い続ける。そこに“人間”は存在しない。あるのはブランド化した身体だけだ。だが、それこそが黄金期ハリウッドが作り上げた夢の形式だった。
ゲーリー・クーパー、ケーリー・グラント、マリリン・モンロー。彼らは演技よりも“存在”によって映画を支配した。『ナイト&デイ』は、その古典的スタア至上主義を、2010年代において最後に体現した作品である。
ロサンゼルス・タイムズ紙は「若年層がトム&ディアスの映画を観るだろうか」と冷笑したが、それは的外れだ。彼らの目的は、観客の共感を得ることではなく、“過去の輝き”を繰り返すことにある。ハリウッドが最も得意とするのは、懐古をアクションとして演出する技法なのだ。
『ナイト&デイ』は筋書きも薄い。銃撃戦と逃走劇を繰り返すうちに、ストーリーの輪郭は溶けていく。だが、トムの笑顔とキャメロンの叫びだけは記憶に残る。
映画とは、意味ではなく記憶の芸術である。だからこそ蓮實重彦がこの作品を2010年のベストテンに挙げたのだろう。そこには、映画というメディアが“物語”から“存在の輝き”へと還る原点がある。
『ナイト&デイ』を見つめるとき、我々は映画の過去を、トム・クルーズとキャメロン・ディアスという二つの肉体を通して見ている。
彼らは老いを拒み、変化を拒み、ただ「スターであり続けること」を選んだ。
ハリウッドの夢は、ここに終わり、そしてまた始まる。
- 原題/Knight and Day
- 製作年/2010年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/110分
- 監督/ジェームズ・マンゴールド
- 製作/トッド・ガーナー、キャシー・コンラッド、スティーヴ・ピンク、ジョー・ロス
- 製作総指揮/アーノン・ミルチャン、E・ベネット・ウォルシュ
- 脚本/パトリック・オニール
- 撮影/フェドン・パパマイケル
- プロダクションデザイン/アンドリュー・メンジース
- 衣装/アリアンヌ・フィリップス
- 編集/クインシー・Z・ガンダーソン、マイケル・マカスカー
- 音楽/ジョン・パウエル
- トム・クルーズ
- キャメロン・ディアス
- ピーター・サースガード
- ヴィオラ・デイヴィス
- ポール・ダノ
- ジョルディ・モリャ
- フォーク・ヘンチェル
- マギー・グレイス
- デイル・ダイ
- マーク・ブルカス
