ストーンズPV+奇妙キテレツな政治的寸劇 ゴダールの大胆極まりない野心作
『勝手にしやがれ』(1959年)や『気狂いピエロ』(1967年)など革命的な作品を世に送り出し、ヌーヴェルヴァーグの旗手として映画界を席巻したジャン・リュック・ゴダール。
この御仁は、70年代より毛沢東主義に傾倒し、政治的主題を扱った映画を次々と発表していく訳だが、にもかかわらず作風はポップでグルーヴィー。ウンザリするような説教を聴かされる割には嫌みなし。
そういう意味でも、『ワン・プラス・ワン』(1968年)のような映画は世界でただ一人、ジャン・リュック・ゴダールのみが撮り得る作品なんだろう。
当初はジョン・レノンにキリスト役で映画出演を打診していたのだが、すげなく断られてしまい、じゃあ代わりにローリング・ストーンズの録音風景を撮ろう、ということになったらしい。うーむ、ゴダールらしい思いつき行動なり。
その時点でゴダールのストーンズ予備知識はゼロに等しく、じゃあ自分の政治思想も織り込んじゃえ!ということで、『悪魔を憐れむ歌』のレコーディング風景と、政治的発言を語る人たちのインタビュー風景を交互に描くという、尋常ならざる映画が完成した。
都市の片隅でリロイ・ジョーンズの『ブルースの魂』を読み上げる黒人たち、ヒットラーの『わが闘争』を朗読するポルノショップのオーナー、あらゆる質問に「はい」と「いいえ」で答えるアンヌ・ヴィアゼムスキー。
あらゆる政治的シークエンスが寸劇のように展開され、ゴダールはそれをワン・ショットの長回し撮影で捉える。彼は自らのイデオロギーを誇示しない。ただ淡々と、観るものに「思索すること」、「対話すること」を求めるだけだ。すべては記号化されている。咀嚼なしにそれを飲み込めやしない。
しかしながら僕には少々咀嚼能力が足りなかったようで、ロンドンで『悪魔を憐れむ歌』のレコーディングに苦心していたローリング・ストーンズを、左右のパンを多用した長回し撮影で延々撮り続けるシーンは、正直「退屈」の一言。
多重録音が可能となった当時のスタジオワークによって、音楽に段々と生命が吹き込まれていく様子がリアルに刻印されているんだが、傑作の誕生に立ち会っているにもかかわらず、僕にはまったく高揚感が感じられないんである(スタジオが全焼してしまったり、ブライアン・ジョーンズが大麻所持で逮捕されたりと、製作自体は困難を極めたようだが)。
政治的にも音楽的にも、『ワン・プラス・ワン』は極めて時代的な作品だ。五月革命で揺れていた時代背景を、ストーンズのPVと奇妙キテレツな政治的寸劇で表現してしまおうという、ゴダールの野心は大胆極まりなし。
でも僕の頭は途中からクラクラしっ放し。在りし日のブライアン・ジョーンズを映像で拝見するたびに、僕の眼は潤みがち。ゴダール パイセン、申し訳ないっす。
ちなみに、ストーンズが完成版『悪魔を憐れむ歌』を演奏するシーンが最後に流れるが、これはプロデューサーのイアン・クォーリエによる商業的判断によるもの。オリジナルのエンディングをカットして、勝手にインサートしてしまったのだ。
ゴダールはこれに烈火のごとく激怒し、ロンドン国立映画劇場で行われたトークショーで、クォーリエをぶん殴るという暴行に及んでいる。国立映画劇場の支配人だったマイク・ウェッセンズが仲裁に入るも、ゴダールは彼にも殴りかかり、勢い余ってステージから転落してしまったそうな。
いやいや、どんだけ武闘派なんだゴダール。
《補足》
2021年、チャーリー・ワッツ逝去を受けて『ワン・プラス・ワン』がリバイバル追悼上映されたんだが、その際に“今一番イケてるデザイナー”大島依提亜さんが手がけたポスター・デザインが、鬼カッコ良かったことを付言しておきます。惚れ惚れ。


- 原題/One Plus One
- 製作年/1968年
- 製作国/イギリス
- 上映時間/101分
- 監督/ジャン・リュック・ゴダール
- 脚本/ジャン・リュック・ゴダール
- 製作/マイケル・ピアソン、イェーン・クォーリア
- 撮影/トニー・リッチモンド
- 音楽/アーサー・ブラッドバーン、デリック・ボール
- 編集/ケン・ラウルス
- ミック・ジャガー
- ブライアン・ジョーンズ
- キース・リチャーズ
- チャーリー・ワッツ
- ビル・ワイマン
- アンヌ・ヴィアゼムスキー
- イェーン・クォーリア
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