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2026/2/12

『卍』(1964)徹底解説|増村保造×若尾文子が描く、美しき心中への四重奏

『卍』(1964)
映画考察・解説・レビュー

6 OKAY

卍(1964年)は、日本映画黄金期の巨星・増村保造が、谷崎潤一郎の倒錯したエロティシズムを、新藤兼人による峻烈な脚色で解体し、再構築した愛の地獄図。小林節雄のカメラが捉える、若尾文子という絶対的なアイコンの白磁のような美しさと、それに対峙する岸田今日子の底知れぬ情念。二人の女性から始まった同性愛の火種は、やがて男たちを巻き込み、卍の形に絡み合う四人の共依存へと変貌していく。

F1レース並みの速度で展開する愛憎劇

1964年、東京オリンピックの狂騒の裏で、大映京都撮影所から一発の劇薬が放たれた。文豪・谷崎潤一郎の代表作を、日本映画史上最もモダンでドライな感性を持つフィルムメーカー、増村保造が映画化した『卍』(1964年)である。

これは単なる文芸映画ではない。ましてや、女性同士の愛を描いたスキャンダラスなだけのポルノでもない。これは人間の理性が情熱という名のアクセルによって粉砕される様を描いた、一種のカー・アクション映画なのだ。

通常、谷崎文学の映像化といえば、湿度が高く、ねっとりとした日本的な情趣が画面を覆うものだ。しかし、増村保造は違う。彼はイタリア留学でネオレアリズモの洗礼を受け、日本人の情緒的な曖昧さを徹底的に憎んだ映画作家だ。

彼が描くのは個人の意志であり、その意志が衝突する時に生じるエネルギーそのもの。まず観客を圧倒するのは、その異常なまでのスピード感である。

原作の『卍』は、大阪の夫人・園子が、徳光光子という美しい女性に翻弄された顛末を語る、独白体の小説だ。関西弁特有の粘り気のある語り口が魅力だが、映画版の脚本を担当した新藤兼人と監督の増村保造は、この構造を大胆に解体・再構築した。

そう、彼らは谷崎の耽美な世界観を、まるでハードボイルド映画かスクリューボール・コメディのようなテンポで処理してしまったのだ。

冒頭からラストまで、一瞬たりとも停滞がない。登場人物たちは、悩み、苦しむ暇さえ与えられないまま、次から次へと行動を起こし、破滅への階段を駆け上がっていく。

増村映画の特徴である「早口のセリフ」と「被せ気味の編集」が、ここでは最大限に効果を発揮している。ため息をつき、涙を流し、窓の外を眺めるような、そんな余白を増村は一切許さない。

「好きだ!」「死ぬ!」「嘘つき!」「愛してる!」。感情が剥き出しの言葉となって弾丸のように飛び交い、観客はその情報の濁流にただただ翻弄される。

増村は登場人物たちを突き放し、彼らが欲望のままに突き進む様を冷徹なカメラワークで捉え続ける。その結果、スクリーンに映し出されるのは、人間というよりも、欲望というプログラムに従って暴走する、美しいマシーンの衝突事故だ。

これはもはや恋愛映画の枠を超え、パニック映画に近いスリルを観る者に与える。谷崎潤一郎が描いた底なしの泥沼を、増村保造は舗装された高速道路に変え、ブレーキの壊れたスポーツカーで突っ走らせたのだ。

この爽快なまでの絶望感こそ、増村モダニズムの真骨頂なのだ。

ファム・ファタールの新定義

徳光光子を演じた若尾文子の圧倒的存在感は凄まじい。彼女は単なる悪女やファム・ファタールといった既存の言葉では到底くくりきれない。ここでの若尾文子は、周囲の人間を喰らい尽くして成長する、無邪気な怪獣である。

若尾演じる光子は、モデルとして園子(岸田今日子)の前に現れた瞬間から、その場の空気を支配する。彼女の武器は、計算された色仕掛けではく、もっと恐ろしい、天然の自己愛だ。

彼女は息をするように嘘をつき、猫のように甘え、次の瞬間には豹変して相手を罵倒する。しかし、そのすべてにおいて彼女は本気なのだ。悪意がないからこそ、タチが悪い。

増村保造は、若尾文子の持つあどけなさと残酷さが表裏一体であることを、誰よりも理解していた。彼女の肌の白さが、画面の中で発光体のように輝く時、それは聖なる光ではなく、原子炉の炉心光のように周囲を被曝させ、狂わせていく。

対する岸田今日子演じる園子の演技もまた、凄まじい。彼女は被害者の顔をして物語を語り始めるが、物語が進むにつれて、彼女の眼差しに潜む執着の異様さが露呈してくる。

光子を崇拝し、彼女の排泄音さえも愛おしむ園子の姿は、愛を超えた信仰の領域に達している。特に、園子が光子の身体をデッサンするシーンの緊張感はどうだ。視線が肉体を撫で回すようなエロティシズムと、いつその均衡が崩れるかわからないサスペンスが同居している。

そして忘れてはならないのが、園子の夫・孝太郎を演じた船越英二の怪演。彼は当初、妻と光子の関係を怪しむ常識的な夫として登場するが、光子の魅力に屈した瞬間から、誰よりも惨めな奴隷へと転落していく。

増村映画において、男たちは常に理性的であろうとし、常に女性のパッションの前に敗北する存在だ。船越が見せる、プライドをかなぐり捨てた情けない表情と、それでも光子を求めずにはいられない哀れさは、この地獄絵図における最高のスパイスとなっている。

若尾文子という怪獣が暴れまわり、岸田今日子という信者がそれを煽り、船越英二という生贄が捧げられる。この完璧なトライアングル(あるいは、光子の婚約者である川津祐介を含めた四角形)が完成した時、『卍』は誰も止められない永久機関となるのだ。

小林節雄のカメラが捉えた幾何学的な愛

増村保造の演出を支え、本作を視覚的な傑作へと押し上げたのが、名カメラマン・小林節雄による色彩設計と構図。当時の大映京都撮影所の美術スタッフの職人芸も光るが、特に本作における色の使い方は異常なまでのこだわりを見せている。

画面を支配するのは、光子の肌の“白”、園子の着物や部屋の陰影が生む“黒”、そして情熱と血を象徴する“赤”だ。この3色のコントラストが、物語の進行に合わせて激しく明滅する。

特に印象的なのは、クライマックス近くの心中未遂シーンだろう。純白のシーツの上で絡み合う二人の女性、そこに散らばる睡眠薬の鮮やかな色彩。それは死の儀式であると同時に、ポップアートのように人工的で美しい。

増村はリアリズムを捨て、画面の隅々までをコントロールされた人工美で埋め尽くすことで、谷崎の描いた虚構の世界を映画的に具現化したのだ。

また、タイトルである『卍』が示す通り、登場人物たちの配置もまた幾何学的。園子、光子、孝太郎、そして光子の婚約者・綿貫(川津祐介)。この4人が互いに牽制し合い、利用し合い、まるで卍の形に組み合わさって回転していく様は、人間関係というよりも、システムの暴走に見える。

誰か一人が欠けても成立しない、奇妙な共依存関係。増村は、この4人を狭い室内に押し込め、広角レンズを多用してその閉塞感と歪みを強調する。

彼らが同じ布団に入り、川の字(あるいは卍の字)になって眠るシーンの、あの奇妙な滑稽さと不気味さはどうだ。そこには性的な背徳感を超えた、人間存在の業のようなものが渦巻いている。

そして、あの衝撃的なラストシーンだ。そこで提示されるのは死による解決ではなく、残された者たちが背負うことになる、永遠の煉獄である。

カメラは、生き残った者の表情を冷徹に捉え、映画は唐突に幕を閉じる。カタルシスなどない。残るのは、焼け野原に残されたような虚無感と、それでも続いていく生の不気味さだけ。この切れ味鋭いエンディングこそ、増村保造がセンチメンタリズムを拒絶し、最後までドライであることにこだわり続けた証だ。

この映画には、正しさなど微塵もない。あるのは、倫理も常識も踏み越えて、ただ「欲しい」と叫ぶ人間の原初的なエネルギーだけだ。だからこそ、今この映画を観ることは、我々の眠っている野生を呼び覚ます体験となるはず。

若尾文子の白い肌に溺れ、増村保造のスピードに振り落とされそうになりながら、僕たちはただ、この美しき地獄で燃え尽きるしかない。

DATA
STAFF
CAST
FILMOGRAPHY