羅生門/黒澤明

羅生門 デジタル完全版 [Blu-ray]

黒澤明が“高邁なシャシン”をワールド・スタンダード・フィルムに仕立て上げた歴史的作品

『羅生門』(1950年)の原作は芥川龍之介の『藪の中』だが、同名タイトルの短編小説『羅生門』も題材として取り入れられている。その一部を書き出してみよう。

ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。

雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍の先に、重たくうす暗い雲を支えている。

風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗の柱にとまっていたきりぎりすも、もうどこかへ行ってしまった。

羅生門 蜘蛛の糸 杜子春外十八篇 (文春文庫―現代日本文学館)
『羅生門 蜘蛛の糸 杜子春外十八篇』(芥川龍之介)

この文章から、読者の脳内にイメージとして沸き上がるのは、猛烈に吹きすさぶ「雨」。それは、黒澤明が過去のフィルモグラフィーで一貫して描いてきたモチーフでもある。

『野良犬』(1949年)で志村喬が撃たれるシーンも、『七人の侍』(1954年)の最後の決戦シーンも、『八月の狂詩曲』(1991年)で村瀬幸子が傘を抱えて走るシーンも、全ては土砂降りのなか展開した。そのこだわりたるや、大量の墨汁を水に混ぜてホースで降らせることによって、白黒の映像にインパクトをつけたという撮影秘話があるほど。

あらゆるものを洗い流すかのような豪雨と対照するがごとく、木々の隙間から燦々と輝く太陽が顔を覗かせる薮の中は、幻想的で静謐な空間だ。

太陽を直接撮ることはタブーとされていた時代にあって、撮影監督・宮川一夫は木漏れ日を望遠レンズで撮影するというサプライズを敢行。結果、「豪雨が降り注ぐ羅生門」と「木漏れ日が差し込む薮の中」という、極端なまでに強烈なコントラストが生まれた。

この感覚は、そのまま黒澤明という映画作家の美意識、作家性に還元されているんではないだろうか。

当時の大映の社長・永田雅一は、この映画を「高邁なシャシンだ。訳が分からん!」と一蹴したそうだが、僕に言わせれば、黒澤明は“高邁なシャシンすら、訳が分かる映画”に仕立て上げてしまう作家である。

コントラストが高くなれば、両極にある異相が鮮やかに浮かび上がり、ドラマの輪郭がはっきりと形作られる。その自明さは映像的表現に留まらず、役者の演技、脚本、細やかな演出にまで及んだ。

よって作品は明瞭な映画言語に純化され、「分かりやすい表現」として世界に流通し、圧倒的な支持を受ける。ここに黒澤のワールドワイドな成功の秘訣があるような気がしてならない。

例を挙げよう。強姦された京マチ子が、森雅之に「やめて!そんな目で私を見ないで!」と叫ぶと、何故かモーリス・ラヴェルのボレロ風音楽(っていうか殆どそのもの)が流れる。

ボレロとは、一定のリズムのなかでメロディーが反復され、終盤になるにつれて次第に勢いを増し、最後は大編成のオーケストラによって大団円を迎える曲であることは、皆さまご存知の通り。

このコンポジションは、そのまま京マチ子演じる真砂の心情の変化とリンクしている。愛する夫の前で強姦されてしまった恥辱に耐えきれず泣き叫ぶが、侮蔑しきった表情で彼女を見据える森雅之にいたたまれなくなり、「私を殺して」と口走る。それでも蔑んだような表情を変えない夫に対し、半狂乱になりながら「やめて」と繰り返す。

「悲嘆→驚愕→嘆願→狂乱」と次第に感情のレベルが高まっていくプロセス、「やめて」というセリフの反復は、まさにボレロ的。登場人物の心理状態を、そのままBGMで表出してしまうという試みは、映画的表現として極めて明朗であり、堅牢な強度を誇る。

1951年のヴェネチア国際映画祭グランプリを受賞した『羅生門』は、その濃密なオリエンタリズムが西洋人のハートを射抜いたことも確かだろうが、それよりも黒澤明の日本人離れした明瞭な語りに負うところが大であると思う。

日本映画の歴史に慎ましやかに鎮座するはずだったこの文芸作品は、“クロサワ”という唯一無二な存在によって強烈なコントラストに彩られ、力強いワールド・スタンダード・フィルムに仕上げられたのだ。

DATA
  • 製作年/1950年
  • 製作国/日本
  • 上映時間/88分
STAFF
  • 監督/黒澤明
  • 製作/箕浦甚吾
  • 脚本/黒澤明、橋本忍
  • 原作/芥川龍之介
  • 撮影/宮川一夫
  • 音楽/早坂文雄
  • 美術/松山崇
CAST
  • 三船敏郎
  • 京マチ子
  • 森雅之
  • 志村喬
  • 千秋実
  • 上田吉二郎
  • 本間文子
  • 加東大介

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