西川美和のインテリジェンスを感じさせる、理知的なフィルム
『ゆれる』(2006年)の制作意図について、監督の西川美和はこんなコメントを残している。
人間関係のもろさや危うさ、記憶のあいまいさなど抽象的なものをテーマにしたかった
確かに人間の記憶は曖昧だ。僕なんぞ、昨日の晩御飯の献立すら忘却の彼方である。しかし、あらゆるファクターが具象化される映画というメディアにおいて、「曖昧」で「抽象的」な表現は、逆に確かな演出力が要求される。
西川美和は、客観的事実ではなく主観的事実を配置することによって、すなわちサスペンス的な作劇を用いることによって、その難題を軽々とクリアしてしまった。
田舎で家業のガソリンスタンドを継いで細々と暮らしている兄・稔(香川照之)と、東京で売れっ子写真家として活躍する弟・猛(オダギリジョー)。
兄は“向こう側”に行く勇気のなかった臆病者だと智恵子(真木よう子)になじられ、弟は自らの意思で“向こう側”に辿り着き、そんな彼に憧れを抱いている智恵子と激しい性交渉に及ぶ。
あまりにの対照的な二人を分け隔てているのは、“向こう側”へ行く境界線としてシンボリックに登場する吊り橋そのものだ。思わず目がくらむような渓流にかかる橋の上で、悲劇は起きる。
だがその悲劇の輪郭はあまりにも不明瞭で、不確かなものだ。映画では、3つの異なる「事実」が提示される。あたかも真実は常に「ゆれる」存在であるがごとく。
《1》吊り橋を渡る際、稔が恐怖のあまりに智恵子に抱きついていると、「触らないで!」と激しく拒否されたため、思わず彼女を激しく突き倒す。我に返って尻餅をついた彼女に手を差し伸べるが、智恵子は後ずさりして、そのまま渓流に落下してしまう
《2》猛に一緒に付いて東京にいく」という智恵子に、「騙されているんだ」と諭す稔。「あなたみたいになりたくないのよ」と反発する彼女に逆上し、思わず吊り橋から突き落とす
《3》落下する智恵子に、思わず手を差し出す稔。智恵子の腕を掴むが、支えきれずに彼女は落下してしまう。稔の腕の傷は、その時の智恵子の爪痕が生々しく残ったものである
整理しよう。《1》は稔が裁判所で証言するシーン、《2》は猛が裁判所で述懐するシーン、《3》は猛が幼少時代のフィルムを観ていたシーンにインサートされる。
「稔の腕の傷」はまぎれもない客観的事実なのだから、普通に解釈すれば《3》が真実となる。猛が裁判所で「兄が智恵子を突き落とした」と偽証したのは、「お前は犯罪者の弟になりたくないだけなんだろう」という信じられない稔の発言を聞き、かつての優しい兄貴を取り戻したいという一念からだ。
だが、本当にそうだろうか。「稔は故意に智恵子を突き落としていない」ことを予め知っていたとすれば、猛が警察の取調べに対して「何も見ていなかった」と発言しているのは道理に合わない。血縁関係の人間の証言とはいえ、稔の身の潔白を証明することはできる。
では、実際に稔は彼女を吊り橋から突き落としたのか。であるなら、彼の腕に残る傷はいつ、どのようにつけられたものなのか。うーむ、ここまで来ると訳が分からなくなってきます。完全なる思考停止状態。黒澤明の『羅生門』(1950年)のごとく、この映画には虚実が入り乱れている。
どの解釈もあり得そうだし、どの解釈も間違っているような気がする。それはつまり、解釈が多義的ということであり、そこから導かれる兄弟の関係性も多義的ということだ。
西川美和の指向した「人間関係のもろさや危うさ」という表現は、かくして補完される。『ゆれる』は、作り手のインテリジェンスをまざまざと感じさせる、極めて理知的なフィルムだ。
ただ不満をちょっと述べさせてもらうなら、幼少時代の自分と兄が映っている昔のフィルムを観ていたオダギリジョーが、感極まって出所する香川照之に会いに行くラストシーンは、「あの吊り橋はまだかかっているのだろうか」云々のモノローグを挿入したことも含めて、あまりに説明的すぎたし、終わらせ方が性急すぎたように思う。
観客に委ねられていた二人の関係=距離感は、最後の最後で作り手が生真面目に落とし前をつけてしまった。おそらく“自分が紡ぎだす物語”に対して、西川美和監督がきちんと責任を引き受けようとした結果なんだろうけど。
- 作年/2006年
- 製作国/日本
- 上映時間/119分
- 監督/西川美和
- 製作/川白和実、重延浩、八木ヶ谷昭次
- プロデューサー/熊谷喜一
- 企画/是枝裕和、安田匡裕
- 原案/西川美和
- 脚本/西川美和
- 撮影/高瀬比呂志
- 美術/三ツ松けいこ
- 音楽/カリフラワーズ
- 編集/宮島竜治
- 録音/白取貢
- 照明/小野晃
- オダギリジョー
- 香川照之
- 伊武雅刀
- 新井浩文
- 真木よう子
- 木村祐一
- ピエール瀧
- 田口トモロヲ
- 蟹江敬三
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