ネットに吹き荒れる罵詈雑言の嵐を知りつつも、「スタジオジブリ作品を鑑賞することは、もはや己のマスト・ルール」と割り切って観にいってしまいました、『ゲド戦記』。
そもそも原作は、アーシュラ・K・ル・グウィン女史によるファンタジー小説の傑作。宮崎駿が大ファンで、かつて映画化しようと試みたものの、当時はまだマイナーな存在だった宮崎にアーシュラ女史が断りを入れたというエピソードは有名である。
しかし時は過ぎ、今や宮崎駿は世界を代表するアニメ作家となった。『千と千尋の神隠し』がアカデミー賞の長編アニメーション映画賞を獲得し、ベネチア国際映画祭で栄誉金獅子賞を受賞したこの巨匠に対し、アーシュラ女史も「ミスター・ミヤザキなら…」と遂に映画化にゴーサインを出す。
しかし『ハウルの動く城』の製作で身動きがとれない宮崎駿に代わって、結局監督することになったのがその息子の宮崎吾朗氏という展開に、さすがのアーシュラ女史も「オーマイガー!ミヤザキ違いじゃナイノ!」とご立腹されたのではなかろうか。
とにかく『ゲド戦記』に関する映画評を丹念に読んでいくと、批判・中傷のオンパレードである。曰く、「物語が観念的すぎ、アニメとしての躍動感がない」、「原作のダイナミックな世界観を咀嚼しきれていない」云々。
以上の批判に関しては僕自身も全く異論がない。仰る通りだと思います。
しかし、皆はこの映画に何を期待したというのだろう?『『風の谷のナウシカ』(1984年)や、『天空の城ラピュタ』のような傑作を信じて観にいったのだろうか?
笑~止!!だとすれば、まず批判されるべきは作品ではなく観客自身である。処女作で宮崎ジュニアに宮崎駿クラスの完成度を求めること自体が、そもそも間違っている。
別に宮崎吾朗の肩を持つ訳ではないが、演出プランに関する戦略は間違いではなかったと思う。言うまでもなくジブリ作品の真骨頂は、優れたアニメーターでもある宮崎駿の手によって緻密に計算された、ダイナミズム溢れるアクションにある。
しかしこれは、長年の経験と熟練の技に裏打ちされた高次なスキルなのであって、最近までジブリ美術館長という職を務めていた人物に、おいそれと成し遂げられるようなシロモノではない。
たぶん宮崎吾朗自身もそのことはよく分かっていて、結果的にファンタジー映画とは思えないほど、活劇要素が控え目な作品に仕上がっている。
「生半可なスキルでアクション映画をつくるよりも、内省的な映画にしたほうがつくりやすい」という、極めて現実的な判断があったものと推測する。
確かに人物造形もアマいし、ドラマの構成もユルいし、世界観も中途半端にしか提示できていない。厳格な宮崎駿の管理下に置かれなかったからか、作画的なミスもいくつか散見できた。
それでも、少なくとも鑑賞に値するレベルにまで作品を持っていけたのは、『ゲド戦記』が宮崎吾朗の作家的資質を大放出しまくった私的作品ではなく、極めて現実的な判断によって商業作品としての骨格を保つことに(一応)成功した作品だったからではないか。
作家的資質が作品に照射されない、というのも考えてみればおかしな話だが、暴言を承知で言えば、たぶん宮崎吾朗には、もともと語るべきストーリーがないんだと思う。
彼は、あくまで映画をマーケットとして捉えられるような、ビジネスライクにモノを考えられる人なんではないだろうか。アーティストというよりは、プロデューサー的視点で製作進行を行える人なんではないだろうか。
そうでなければ、明白すぎるぐらいのエディプス・コンプレックスが読み取れる「父殺し」のエピソードを、鈴木敏夫プロデューサーの進言(強制?)があったとはいえ、挿入できる訳がない。どー考えたって、作り手として沽券にかかわる。
という訳で僕の『ゲド戦記』に対する評価は、「世紀の駄作になることから免れることに成功した作品」という言い方に集約される。本来ならマイナス200点ぐらいの作品が、マイナス2点ぐらいまでにはもっていけた、みたいな。
…まあ、それを成功と呼ぶべきだどうかに関して、いろいろ異論もありましょうが。
- 製作年/2006年
- 製作国/日本
- 上映時間/116分
- 監督/宮崎吾朗
- プロデューサー/鈴木敏夫
- 原作/アーシュラ・K・ル=グウィン
- 原案/宮崎駿
- 脚本/宮崎吾朗、丹羽圭子
- 美術監督/武重洋二
- 音楽/寺嶋民哉
- デジタル作画監督/片塰満則
- 映像演出/奥井敦
- 効果/笠松広司
- 岡田准一
- 手嶌葵
- 田中裕子
- 小林薫
- 夏川結衣
- 香川照之
- 内藤剛志
- 倍賞美津子
- 風吹ジュン
- 菅原文太
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