惑星ソラリス/アンドレイ・タルコフスキー

常にさざめき、揺らぐ。人間の内面にフォーカスした唯心論的SF

とかくスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』(1968年)と比肩される『惑星ソラリス』(1972年)だが、映画が包括するテーマは180°違う。

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2001年宇宙の旅(スタンリー・キューブリック)

キューブリックは、宇宙の定理を純粋数学的思考で描こうとした。それは「スピノザの神」を唯一無二の神とし、特殊相対性理論による単純な公式によって世界を表そうとした、アルバート・アインシュタイン博士の信条に酷似している。キューブリックが仕掛けたのは、“神”をスクリーン上に描こうとするドラスティックな野心的試みだったんである。

しかし、『惑星ソラリス』におけるアンドレイ・タルコフスキーの視座は、実証主義的な即物的思考ではなく、人間の内面にフォーカスした唯心論的思考だ。喜び、哀しみ、怒り。そこには溢れんばかりの「感情」がある。かつてアインシュタインと対談したインドの大詩人タゴールは、天才学者に向かって次のような発言をした。

「あなたたち科学者は月をみて、クレーターだらけの石の固まりとして認識するだろうが、私には光と影がおりなす宇宙の神秘にみえるのです」

いやー金言ですねえ。この言葉が、『2001年宇宙の旅』と『惑星ソラリス』の差異を端的に表しているんではないだろうか。

プラズマ状に渦巻く海に覆われた惑星「ソラリス」。知的生命体の存在は確認されていないものの、何らかの「意志」を持つ謎の惑星。科学者たちはその秘密に迫ろうとしたが、研究は難航し、宇宙ステーションでは原因不明の自殺者が出るなど混乱を極めた。

事態を収拾すべく派遣された心理学者クリスは、そこで想像を絶する状況に遭遇する…。主人公の悔恨の念によって引き起こされる悲劇は、あまりにも人間的なイシューに立脚したものだ。SF映画としての形式は、単なるコンポジションにしか過ぎない。

映画全編を貫くのは“水”のイメージだ。水面で美しく揺れる水草のファーストシーン、人間の潜在意識を探り出して実体化させるのはソラリスの海、傷付いたクリスの腕を優しく水で洗い落とす母親。“水”は常にさざめき、揺らぎ、それは定型化することはない。

キューブリックが、宇宙を均一化された無機質なイメージで描いてみせたのは実に好対照に、タルコフスキーの描く宇宙には有機的で、どこまでも伸びやかに広がっていく(まあ宇宙のシーンというよりも海のシーンしかないんだから当たり前だが)。

“水”のさざめきに呼応するように、主人公クリスの心もざわめく。科学者としての自分と、人間としての自分。「トルストイは『人類を愛せない』ということで苦悩した」とクリスはつぶやく。

彼の苦悩は人間の本質に根付いたものだ。即ち、「人間的なものとは何か」、「愛とは何か」という根本的な問い。彼の心理的葛藤を暗示する映像的イメージに、“水”ほどうってつけのものはなかっただろう。

ちなみに第一部に登場する高速道路のシーンは日本で撮影されたものである。高度経済成長期にあった日本が、タルコフスキーの近未来都市のイメージとマッチしたのか。

今見るとレトロ趣味としては面白いが、それにしてもやたら長いシーンである。いや、レイドバックしてると言うべきか。タルコフスキーの映画においては、あらゆる事象が無限に続くような時間が刻印されている。悠久の時間がタルコフスキーのもうひとつの魅力でもある。

…いや、それにしたって高速のシーンは長過ぎだよなあ。

DATA
  • 原題/Solaris
  • 製作年/1972年
  • 製作国/ソビエト
  • 上映時間/ 165分
STAFF
  • 監督/アンドレイ・タルコフスキー
  • 原作/スタニスラフ・レム
  • 脚本/アンドレイ・タルコフスキー、フリードリフ・ゴレンシュテイン
  • 撮影/ワジーム・ユーソフ
  • 音楽/エドゥアルド・アルテミエフ
  • 助監督/ラリッサ・タルコフスキー
CAST
  • ナターリヤ・ボンダルチュク
  • ドナタス・バニオニス
  • アナトリー・ソロニーツィン
  • ウラジスラフ・ドヴォルジェツキー
  • ユーリー・ヤルヴェト
  • ソス・サルキシャン
  • ニコライ・グリニコ
  • タマーラ・オゴロドニコヴァ

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