『ニッポニアニッポン』阿部和重が露わにする“飛べない日本”の寓話
『ニッポニアニッポン』(2001年)は、阿部和重がトキの絶滅と再生を通して“日本という幻想”を描いた長編小説。物語は、トキを救うと語る少年・鴇谷春生の計画を中心に、家出少女との出会い、ネット情報への依存、未遂の行動を交錯させる。理想と現実の乖離、暴力の偶発、信念になりきれない純粋さを軸に、ゼロ年代の若者像と国家の自己投影を照射していく。
国家という幻想──「トキ」が映す日本の自己像
絶滅の危機に瀕した野鳥トキは、その学名「ニッポニア・ニッポン」が象徴するように、日本という国家のメタファーとして読み解かれてきた。
国家の理想と現実、純粋性と混血性、そして「日本らしさ」という観念の脆さ。それらすべてが、阿部和重の『ニッポニアニッポン』(2001年)において、トキという存在を媒介として露わになる。
作中で日本政府は、絶滅した日本のトキを再生させるために中国からつがいを輸入し、人工繁殖を試みる。しかしその行為自体が、ナショナリズムの滑稽な自己矛盾を象徴している。
つまり、「純粋な日本」を回復するために、他国の血を混ぜて再生する――この構造こそが、“カタチだけのナショナリズム”のパロディである。阿部はこの倒錯を、政治批判や国家論として展開するのではなく、もっと曖昧で、思春期的な衝動のレベルにまで引きずり下ろす。
物語の主人公・鴇谷春生は、トキを救うという崇高な目的を掲げながら、その実態はネットで集めた断片的な知識に酔いしれる中学生にすぎない。彼の理想は、現実を変革するための思想ではなく、自己の空虚を埋め合わせるための「幻想的ナショナリズム」なのだ。
妄想の革命──「ドン・キホーテ」的ユートピアの崩壊
阿部が描くのは、国家への抵抗でも体制への反逆でもない。むしろ「イデオロギッシュにすらなりきれない」ことへの絶望である。鴇谷少年は、革命の名を借りて“トキの解放”を企てるが、その計画は未成熟な妄想に過ぎず、現実においては滑稽なまでに破綻する。
この構造は、まさに現代版『ドン・キホーテ』である。理想と現実の齟齬に引き裂かれながら、彼は自らの物語を創作し、現実世界を“脚本化”しようとする。だが、阿部の筆はその妄想の滑稽さを突き放さない。むしろその無様さを、ゼロ年代的リアリズムとして描き出す。
トキを奪い、革命を夢見て、結局は警備員を殺害してしまう――この過程は、現代における「行動」と「幻想」の乖離」を露骨に可視化する。
行動は意図せず暴力に転化し、理想は幼稚な破壊衝動へと変質する。しかもその動機は、国家への義憤よりも、家出少女への恋慕によって簡単に揺らいでしまう。この“軽さ”が、まさにゼロ年代の宿命であり、阿部の筆致はそこに恐るべき冷笑を滲ませている。
ゼロ年代の「不純な純粋さ」──思想になりきれない世代
『ニッポニアニッポン』における鴇谷春生は、純粋であろうとするがゆえに滑稽だ。彼の「革命」は、政治的信念というより、思春期の情動と性衝動の延長線上にある。
理想は性的欲望と混ざり合い、行動は倫理と無関係に暴走する。阿部が描いているのは、「イデオロギー以前の欲望」であり、それが現代の“政治”の原型であることを皮肉に示している。
彼の純粋性は、結局のところストーカー的な執着としてしか昇華されない。革命も救済も、思春期的ナルシシズムの産物でしかない。そこにあるのは、政治の消滅ではなく、政治が“私化”された時代の風景である。鴇谷少年の行動は国家のためではなく、自己のために遂行される。
阿部和重が鋭いのは、この“私的な純粋さ”を笑い飛ばさない点だ。彼はそれを一つの病理としてではなく、現代における感情の構造そのものとして描く。つまり、「純粋さこそが、もっとも現実から乖離した不純なもの」なのだ。
イデオロギーの死後──ゼロ年代文学の地平
『ニッポニアニッポン』は、単なる政治小説でも青春小説でもない。それは、「イデオロギーの死」を引き受けた世代の精神史である。
70年代の学生運動のように、理想に身を投じることが“かっこよかった”時代は終わった。2000年代に生きる若者に残されたのは、「信じることの不可能性」と、その不可能性のなかでどう自分を演じるか、という問題だけだ。
阿部はこの“信じることの不可能性”を、笑いではなく痛みとして描く。だからこそ作品のトーンはアイロニカルでありながら、どこか切実だ。鴇谷春生の愚かさは、同時に読者自身のものでもある。彼の失敗と挫折は、ゼロ年代における「行動」の限界を象徴している。
「革命」を夢見ても、それはネット上の情報と自慰的空想の混合物に過ぎない。阿部はこの閉塞を、軽蔑することなく描き出す。むしろ彼は、思想にも反逆にもなりきれない“中途半端な純粋さ”の中に、現代日本のリアルを見ているのだ。
結語──トキの飛翔は、誰の夢だったのか
『ニッポニアニッポン』の終盤、鴇谷春生の計画は破綻し、物語は肩すかしのように終わる。しかしその“しぼみ方”こそが、本作の核心だ。
飛び立つはずのトキは飛び立たず、革命は起こらない。残るのは未遂と空虚、そして中途半端な自己陶酔だけ。だがその不全こそが、ゼロ年代という時代のリアリティなのだ。
阿部和重は、政治的言説の死後においてもなお、文学が「社会」を描くことの可能性を模索した。国家の象徴であるトキは飛ばない。だが、飛べないことそのものが、私たちの現実である。
もはや誰も革命を信じず、誰も信念を持てない時代。だからこそ、鴇谷少年の稚拙な理想は痛ましくも尊い。彼の妄想の翼の中に、飛べない日本という国そのものが映り込んでいる。
『ニッポニアニッポン』とは、「飛べない日本人の寓話」であり、信じることを失った世代の黙示録なのである。
- 著者/阿部和重
- 発売年/2001年
- 出版社/新潮社
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