2026/4/30

『TOUCH』(2009)徹底解説|渋谷系もジャズもシティ・ポップもコンパイルした、土岐麻子・入門編

『TOUCH』(2009年/土岐麻子)
楽曲背景と意味を深掘り考察・批評・レビュー

10段階評価
7
GOOD

概要

『TOUCH』(2009年)は、土岐麻子が発表したアルバムであり、彼女自身と渡辺シュンスケらのプロデュースによって制作された。都会的なシティ・ポップの洗練と、ジャズの気品が柔らかく溶け合い、日常の何気ない風景と、胸が高鳴るような高揚感が自然に共存する。アルバムの幕開けを飾る「How Beautiful」に象徴されるように、軽快なグルーヴと透明感あふれるヴォーカルが、都会を生きる人々の心に寄り添う親密な空気感を生み出している。また、ビル・エヴァンスの「Waltz for Debby」を独自の解釈でカバーするなど、スタンダードな名曲に新たな息吹を吹き込む表現力も秀逸だ。

目次

ミュージシャンたちのミューズとしての覚醒

歴史を振り返れば、土岐麻子という稀代のシンガーがメインストリームへと一気に駆け上がったのは、間違いなく2008年後半の快進撃からである。

NISSAN「TEANA」のCMソングにジャズ・スタンダードの「Waltz For Debby」が起用されたのを皮切りに、ゆめタウン広島のCMソングには「BIRTHDAY CAKE」が抜擢。

さらに極めつけは、ユニクロのCMソングとして「How Beautiful」が全国のテレビから毎日のように流れ、おまけに彼女本人までもがCM画面に登場してしまったこと。この怒濤のタイアップ攻勢によって、彼女の知名度とパブリック・イメージはまさにうなぎ上りとなった。

同時に、彼女は玄人筋からのラブコールも決して絶やさなかった。くるりの記念すべき20枚目のシングル「さよならリグレット」(2008年)にゲストコーラスとして参加し、岸田繁の描くノスタルジックなメロディに極上の彩りを添えている。

第一線で活躍するミュージシャンたちのミューズとしても絶賛活動中であり、あらゆる方面から引っ張りだこ。手がつけられないほど、ノリにノっている状態だったのである。

「Cymbalsってナニ?」世代を取り込む、完璧な入門編

そんな追い風を受けて、満を持してリリースされた3rdアルバム『TOUCH』(2009年)は、彼女のキャリアにおけるひとつの巨大な到達点といえるだろう。

クレジットを見ると、その豪華さに思わずため息が出る。くるりの岸田繁、孤高のシンガーソングライターであるさかいゆう、数々のヒット曲を手掛ける松本良喜、そしてキリンジの堀込泰行。

日本のポップ・ミュージック界の最高峰とも呼べるメンツをずらりと揃えた本作は、Cymbalsも知らないようなヤングジェネレーションのリスナーをも丸ごと取り込む、最強の「土岐麻子・入門編」というべき内容に仕上がっている。

M-1『Superstar』で聴かせる、往年のギターポップを彷彿とさせる渋谷系な土岐麻子。M-3『Waltz For Debby』で披露する、芳醇でアダルトでジャジィな土岐麻子。

そしてM-7『smilin’』に代表される、グルーヴィーで洗練された、70年代シティポップな土岐麻子。まるで「私の守備範囲を全部ひとつのパッケージにコンパイルしました」と言わんばかりの、恐るべきショーケースである。

昭和女子大学人見記念講堂で大貫妙子の息を呑むようなステージを観たときにも痛感したのだが、日本の洗練されたポップスには、決して声を張り上げず、情念をコントロールする「引き算の美学」が脈々と受け継がれている。

土岐麻子の体温の低い、それでいて温かみのある歌声もまた、その正統な系譜のど真ん中に位置しているのだ。

ビル・エヴァンスを歌いこなす軽やかさ

本作の中で特に耳を奪われるのが、やはりM-3「Waltz For Debby」だろう。

ジャズ・ピアノの巨星ビル・エヴァンスが残したこの歴史的名曲を、真正面からカバーしてしまうというラディカルな試み自体がスゴイのだが、それをいとも易々と歌えてしまう彼女のボーカリストとしての技量には、ただただ脱帽するしかない。

もともとこの曲は、エヴァンスが姪のデビイのために書いたインストゥルメンタルであり、ヴォーカル・ナンバーを想定して作られた曲ではない(のちにモニカ・ゼタールンドなどが歌唱してはいるが)。

ピアノの運指をなぞるようなメロディラインは音符の上り下がりが異常に激しく、プロのシンガーであってもピッチを正確に取りながらスウィングするのは相当難しいはず。

しかしながら彼女は、持ち前のたおやかな歌声でそのハードルをふわりと飛び越え、まるで昔から歌い継いできた既成曲のごとく、軽やかに自家薬籠中のモノにしてしまっている。インテリジェンスと野生を、涼しい顔で両立させているのだ。

お茶の間へ向かう覚悟と、ポップスとしての真の成熟

この『TOUCH』というアルバムを製作するにあたって、彼女は「まだ見ぬリスナー=お茶の間に届けたい」という、極めて明確で力強い気持ちをもってレコーディングに臨んだという。

かつてのアンダーグラウンドやクラブ・シーンに向けた音楽であれば、少し斜に構えたアイロニーや、難解な暗号を散りばめることも許されただろう。

しかし、彼女は自らその鎧を脱ぎ捨てた。もってまわったような迂遠な言い回しではなく、聴く者の耳と心に直接的に、ストレートに響くリリックへと変化しているのは、まさにそのお茶の間への覚悟の表れにほかならない。

ポップスとして広く大衆に消費されることは、決して音楽的な妥協ではない。それは、誰にでも伝わる言葉とメロディで、高度な音楽性を偽装するという最もスリリングな挑戦なのだ。

急速にポピュラリティーを獲得したトップ・アーティストとしての確固たる自信が付加されたことで、土岐麻子の音楽世界はより豊かさと深みを増した。彼女がここで鳴らしたポップスの魔法は、時代を超えて今もなお、僕たちのリビングルームを鮮やかに彩り続けている。

参考文献・出典

アルバム情報
プレイリスト
  1. 1. SUPERSTAR
  2. 2. How Beautiful
  3. 3. Waltz for Debby
  4. 4. FOOLS FALL IN LOVE sings with 堀込泰行
  5. 5. ホロスコープ
  6. 6. BIRTHDAY CAKE
  7. 7. smilin’
  8. 8. ブルー・バード with air plants
  9. 9. Let the sunlight in
  10. 10. ふたりのゆくえ
土岐麻子 アルバムレビュー