僕がまだいたいけな大学生だった1995年、友人が「上九一色村に行かないか?」と誘ってきたことがある。
世の中はオウム真理教事件一色に染まっていて、オウムの施設(サティアン)が集中していた上九一色村はちょっとした観光名所になっていた。
地下鉄サリン事件によって、日本の治安神話は音をたてて崩壊。その事件の首謀者たるテロリストの中枢へとピクニック気分で出かけ、非日常な空気を存分に吸い込むという行為に何かしら気味悪いものを感じ、僕はその申し出を辞退したんである。
映画監督の森達也、映像ジャーナリストの綿井健陽、映画監督の松林要樹、映画プロデューサーの安岡卓治の4人が、ノープランで東日本大震災の被災地に赴き、その顛末を映像に収めたドキュメンタリー映画『311』もまた、非現実世界に我が身を浸すというピクニック気分が全編を覆っている。
東北自動車道を北上中、ガイガーカウンターのスイッチを入れると東京の10倍にもあたる放射線測定値を目の当たりにし、「やばいよ、やばいよ」と出川哲朗ばりのコメントを乱発。キャッキャキャッキャする4人の姿には、恐怖よりも高揚感が見て取れる。
防護服とゴーグルに身を包み、「決定的な何か」を求めてさすらうオッサン四人衆は、正直いって滑稽の極み。ジャーナリストの血が騒ぎ、被災者に対してアポなしインタビューを敢行するだけならまだしも、見つかった遺体にもカメラを向ける行為は、滑稽を通り越して不謹慎ですらある。
だがモラルを飛び越えたこのショッキングな映像こそ、我々が観たがっている「決定的な何か」、そのものなのだ。
映画のパンフレットで三留まゆみは「あなたは今、この映画を観て戸惑っているかもしれない。どうしようもない居心地の悪さを感じてしまうかもしれない」と記しているが、正直僕は戸惑いも居心地の悪さも感じなかった。
むしろ、露悪的に描き出そうとしているであろうアンチモラル性に、一貫性すら感じられなかったんである。
森達也は「(カメラを廻すことは)後ろめたいですよ。でもそこを紛らわせば、頑張ろう日本とか、そっちに行っちゃう。否定はしないが、一色になりすぎる」と語っている。
つまり彼が目指したかったのは、不謹慎を承知で言えば「見せ物としての3.11」であり、善意に包囲された自主規制へのささやかな異議申し立てであり、森達也的マスコミ論なんである。
しかしながら映画『311』は、4人の監督それぞれのマスコミ論、ドキュメンタリー論が交錯してしまっており、小さくないコンフリクトをおこしてしまっている。
森達也自身「そもそもドキュメンタリーで、4人の共同監督作品なんてありえない」と語っているが、例えば被災した中学校の卒業式のシーンが不要なセンチメンタリズムを発動させてしまっているなど、森達也的マスコミ論が全うしきれてないのだ。
ノープラン旅行で始まったこの映画は、醜悪ドキュメンタリーとして針を振り切ると思いきや、結局のところ凡庸な記録映画にしかならなかった。
ドキュメンタリーほど撮影者の主観・想いが投影されるメディアはない。4人の映像ジャーナリストの交錯した想いは、ひとつの糸に収斂されることはなかったんである。
- 製作年/2011年
- 製作国/日本
- 上映時間/92分
- 監督/森達也
- 監督/綿井健陽
- 監督/松林要樹
- 監督/安岡卓治
- 森達也
- 綿井健陽
- 松林要樹
- 安岡卓治
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