『エンド・オブ・デイズ』(1999年/ピーター・ハイアムズ)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『エンド・オブ・デイズ』(原題:End of Days/1999年)は、アーノルド・シュワルツェネッガーがキャリア史上初めて「超自然的な悪」との死闘に臨んだ、世紀末のオカルト・アクション。1999年12月31日のニューヨークを舞台に、絶望に暮れる元刑事が、悪魔の花嫁として狙われた女性を救うべく孤軍奮闘する。『カプリコン・1』の名匠ピーター・ハイアムズによる重厚な暗黒の映像美と、ガブリエル・バーン演じる知的な悪魔像が、ミレニアム前夜の不安を象徴する一作。
シュワルツェネッガーが挑む、最古にして最凶の敵
これまで宇宙人、未来の殺人マシーン、凶悪なテロリスト、果ては完全武装のコマンドー部隊まで、ありとあらゆる地上の脅威を粉砕してきた我らがヒーロー、アーノルド・シュワルツェネッガー。
だが、1999年というリアルな世紀末の不穏な空気が漂う中、『エンド・オブ・デイズ』で彼が相まみえることになったのは、人類最古にして最凶の敵、すなわち悪魔(サタン)そのものである。
1999年12月31日、新世紀を迎える直前のニューヨークを舞台に、堕落しきった元刑事の民間警備員ジェリコ・ケインが、悪魔の花嫁に選ばれた女性を守り抜き、再び自らの信仰と戦う意味を取り戻していく。
この物語は、ある意味で80〜90年代を牽引してきたシュワルツェネッガーという筋肉神話における、最終的な解体と葬送の儀式でもあるのだ。
バチカンの陰謀、ヨハネの黙示録、悪魔の憑依、そしてミレニアム・パニック。正直に言えば、これらのオカルト要素とド派手な爆破アクションの全部乗せ感には、いささか強引な胸焼けを覚えるかもしれない。
しかし、オカルトホラーと筋肉アクションという水と油であるはずの異ジャンルを、シュワルツェネッガーという規格外の肉体を媒介にして強引に溶接してしまったこの狂った試み自体が、90年代末のアメリカ映画界が陥っていたジャンル実験の極限を象徴している。
最高にハイカロリーだぜ!
ピーター・ハイアムズが構築する暗黒の迷宮
本作のメガホンを取ったのは、『カプリコン・1』(1977年)や『アウトランド』(1981年)で知られる職人監督、ピーター・ハイアムズ。彼がこの映画に持ち込んだのは、終末のリアリズムとでも呼ぶべき、息が詰まるほど冷徹でダークな世界観だ。
ハイアムズがサタン降臨の舞台として選んだのは、宗教都市ローマではなく、欲望が渦巻くニューヨーク。そこでは巨大な高層ビルが教会の鐘楼の代わりにそびえ立ち、薄汚れた地下鉄のトンネルが冥界へのダイレクトな通路となる。都市そのものが、巨大な地獄の門として禍々しく機能しているのだ。
ハイアムズのカメラは常に極端に暗く、光源は徹底して制限されている。むせ返るような霧、爆発の炎、深い影、そして濡れた路面の反射。彼がこよなく愛するロングレンズでの撮影によって、空間は異常なほど圧縮され、登場人物たちは完全に逃げ場を失っていく。
『アウトランド』で描かれた宇宙ステーションのあの息苦しい閉塞感が、この終末都市ニューヨークのど真ん中にそのまま転写されているのだ。
バチカンの大聖堂ではなく、ウォール街のど真ん中。修道士ではなく、強欲な株式仲介人。ハイアムズは現代社会の信仰の堕落を、舞台設定によって痛烈に皮肉ってみせる。
神の不在を宣告するのは、もはや十字架ではなく、ギラギラと光るネオンサインなのだ。
ガブリエル・バーンの知的テロリズム
本作の恐怖と虚無の根源を完璧に体現しているのが、悪魔に憑依されたガブリエル・バーンだ。冷ややかな眼差しと、完璧に計算し尽くされた抑制の効いた演技。彼は超自然的なサタンを、古典的なツノの生えた化け物としてではなく、知的なモンスターとして降臨させた。
教典的な威厳や安っぽいホラー的誇張に頼らず、高級スーツを着こなした都市のエリートの姿のまま、人間の肉体に巣食う悪魔。その洗練された造形こそが、極めて現代的な恐怖を喚起する。
バーン演じる悪魔は、物理的な暴力よりも言葉という鋭利な刃物で人間の心の隙間を抉り、誘惑する。絶望するジェリコに向かって「神はお前を見捨てたのだ」と静かに囁くその声は、シュワルツェネッガーがぶっ放す火炎放射器やグレネードランチャーよりも遥かに破壊的。
宗教とテクノロジーがカオスに交錯する1999年において、悪魔はもはや赤い角もコウモリの羽も必要としない。彼はビシッとネクタイを締め、携帯電話を片手に我々の日常へとシームレスに侵入してくるのだ。
一方のシュワルツェネッガー演じるジェリコは、妻子を失い、自殺未遂を繰り返し、酒に溺れ、信仰も希望も完全にドブに捨てた男として登場する。
これは間違いなく、超人ヒーローからの人間への転落という自己解体だ。だが悲しいかな、彼の抱える深い悲嘆や心理的苦悩は、いざアクションが始まるとその巨大すぎる筋肉の陰に隠れ、爆発と銃撃によって見事に中和されてしまう。
涙よりも弾丸、祈りよりも銃火器。ハイアムズのリアリズムがどれほど彼に人間的な倫理を与えようとも、シュワルツェネッガーの肉体はあまりにも神話的すぎて、悲惨な現実を跳ね返してしまうのだ。
だが逆説的に言えば、このキャラクターと肉体のミスマッチこそが、本作の最大の魅力であり面白さでもある。神を信じられない男が、神の不在の街で、筋肉と重火器だけを頼りに悪魔とタイマンを張る。これぞまさに、ポスト冷戦時代におけるアメリカン・アイデンティティの究極の象徴だ。
『エンド・オブ・デイズ』は、信仰なき時代の、最高に歪で愛すべき祈りの映画なのである。
世紀末が産み落とした筋肉の黙示録
クライマックス、ジェリコはついに悪魔に憑依されてしまう。だが彼は、自らの肉体を犠牲にして悪魔を封じ込め、家族への愛によって世界を終末から救う。
この展開自体は、オカルト映画としてはあまりにも古典的で、ともすれば凡庸に映るかもしれない。だが、ハイアムズ監督はその陳腐さを逆手にとってみせる。
ここで描かれる愛の力とは、巨大な絶望と悪意に抗うための、ジェリコ=シュワルツェネッガーの“究極の筋肉運動”(=フィジカル・アクション)」なのだ。
教会の剣に自らの体を串刺しにするラストの壮絶な構図は、ハイアムズ特有の陰影と照明美学の絶対的な頂点であり、同時に90年代アクション映画というジャンル自体が終焉したというメタファーだろう。
シネマスコープの横幅いっぱいに広がる業火の火柱と、そこにポツンと浮かび上がる孤立した人間のシルエット。ハイアムズの映画空間では、広大なスペースは常に圧倒的な孤独を意味している。ワイドスクリーンは、神のいない残酷な世界に立てられた巨大な十字架なのだ。
ハッキリいって『エンド・オブ・デイズ』は、ツッコミどころ満載のB級アクション映画だ。しかしハイアムズはこの作品で、ハリウッド・アクションの黄金期の終焉と、来るべき新世紀の不安を見事に重ね合わせてみせる。
終末の炎の中で立ち尽くすシュワルツェネッガーの姿は、映画という名の強固な信仰を最後まで捨てなかった、不器用で愛すべき最後の信徒だったのだ。
- 監督/ピーター・ハイアムズ
- 脚本/アンドリュー・ダブリュ・マーロー
- 製作/アーミアン・バーンスタイン、ビル・ボーデン
- 撮影/ピーター・ハイアムズ
- 音楽/ジョン・デブニー
- 編集/スティーヴン・ケンパー
- 美術/リチャード・ホランド
- 衣装/ボビー・マニックス
- カプリコン・1(1977年/アメリカ)
- エンド・オブ・デイズ(1999年/アメリカ)
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