C’mon/タウン・アンド・カントリー

『C’mon』──電気を捨てた異物としての室内楽ポストロック

『C’mon』(2002年)は、シカゴ拠点のアコースティック・カルテット、タウン・アンド・カントリーが発表した3rdアルバム。メンバーはベン・ヴィダ、ジョシュア・エイブラムス、リズ・ペイン、ジム・ドーリングの4名で、ギター、コントラバス、コルネット、バスクラリネット、ハルモニウムなどを用い、電子音を使用しない演奏を徹底した。全7曲で構成され、8分台の「Going to Kamakura」や反復を中心に進行する「I’m Appealing」が配置されるなど、ミニマル室内楽の形式を保ちつつ、演奏時間を44分に収める編成が採られている。

タウン・アンド・カントリー──シカゴ音響派の中でも“異物”だった存在

タウン・アンド・カントリーは、1998年から2006年にかけて活動したシカゴ拠点のミニマル・アコースティック・カルテットだが、その立ち位置は明らかに“異物”だった。

トータス以降のポストロックがエレクトロニクスと構築美を競っていた時代に、彼らだけが電子音を完全に排除し、生楽器の反復だけで音楽を成立させようとしたからだ。

ジム・オルークやケヴィン・ドラム、ケン・ヴァンダーマークらと即興セッションを繰り返しながらも、その成果はジャズでもロックでもアンビエントでもなく、「鳴り続ける音色の密度そのもの」を聴かせる音楽へと結実していく。

『C’mon』(2002年)はその思想がもっとも純度高く固定された録音であり、オールミュージックが〈ポストロック/チェンバー・ジャズ/エクスペリメンタル・ミニマル〉に分類しているのも、最終的には説明として不十分だ。

ストリング・ベースとアコースティック・ギターが骨格をつくり、低音のバスクラリネットとコルネットが倍音を縫い、チェレスタとハンドチャイムが鐘のような光を落とす。

その構造はメロディでも和声でもなく、ただ「濃度と温度」によって成立している。タウン・アンド・カントリーは、シカゴ音響派のシーンに属しながら、そのどれとも同質化しないまま孤立していた。だからこそ『C’mon』は、いま聴いてもなお説明しがたい強度を保っているのだ。

では、何と対比すれば、この異物性がより鮮明に浮き上がるのか?

まずトータス。彼らは同じシカゴ拠点でありながら、ポストロックを「編集と構築の音楽」へと進化させた存在だ。電子音やダブ処理、ジャズ的ポリリズムを積極的に導入し、サウンドは常に“設計された都市”のようだった。

そこには“静けさ”はあっても“沈黙”はない。一方でタウン・アンド・カントリーは編集を拒否し、電気を拒否し、設計ではなく“持続”そのものを選んだ。両者は同じ町にいたが、向いていた方向はまったく違う。

次にゴッドスピード・ユー・ブラック・エンペラー。彼らもまた長尺曲構造と静寂を多用するが、それは最終的に巨大なカタルシスへ向かう“構造としての巨大感情”だ。

タウン・アンド・カントリーには、その頂点が存在しない。彼らの音楽は絶えず水平に、均一な密度で揺れ続ける。クレッシェンドもドラマも拒否する“脱・物語的ミニマリズム”であり、その意味で両者は似て見えて、実はほぼ逆の志向を持つ。

そしてガスター・デル・ソル。ジム・オルークを中心とした“思考するアコースティック音響”という点では最も近いが、ガスターは常に「ソング/構築/崩壊」の緊張関係を抱えていた。

曲がうたに近づく瞬間と破壊される瞬間、その行き来こそがエッセンスだった。タウン・アンド・カントリーには、その破壊衝動すらない。ひたすら均質に持続する時間、微細な音色を撫で続ける身体感覚だけが残る。だからこそ、両者が共有する“静けさ”は、質的にまったく異なる。

このように並べると、タウン・アンド・カントリーが「似ているように見えて、どれとも違う」ということがわかる。彼らはポストロックの中に居ながら、ポストロックが依拠していた“構築・感情・構造”のすべてを静かに拒否した。

そうして残ったものが『C’mon』であり、今も名前を挙げる人が少ないにもかかわらず、一度惚れた者を離さない理由でもある。

音ではなく密度を制御するアルバム

『C’mon』は全7曲・約44分。過去作にあった20分級インプロを捨て、「ミニマル室内楽をポップアルバムの尺に収める」という構成に切り替えている。

「Going to Kamakura」は地名を冠した8分曲で、ピッチフォークは「タイトルがなければBGM」と酷評したが、むしろ地名の虚ろな具体性を外部テクストとして差し込むことで、環境音楽的聴取を誘導する装置と捉えるべきだ。

その中でももっとも本作の美学を端的に示しているのが「I’m Appealing」(個人的にもベストトラック!)。7分強のあいだ、同じモチーフが極端なまでに反復されるこの曲は、反復の快楽を掲げたミニマルミュージックの系譜にありながら、スティーヴ・ライヒのように位相を大きくずらすでもなく、テリー・ライリーのように催眠的な上昇感を追求するわけでもない。

タウン・アンド・カントリーが行っているのは、反復そのものの密度をわずかに調整することだけ。ほんの少し音が増え、ほんの少し重心が下がり、ハーモニーが不安定に揺れ、その揺れが静かに持続する。

音楽の展開を放棄することで、「反復そのものがすでに展開である」という逆説が成立している。テンションもブレイクも存在しないのに、音がクールに流れ続ける。そのストイックさが格好いい。派手さのないまま、ずっと一点に燃え続ける火のような曲だ。

「The Bells」はハンドチャイムとブラスの倍音が重なる“鐘のテクスチャ曲”。中盤の「3分間同じ音を吹き続ける」パートに激怒したピッチフォークの2.4点評価と、スカルフィの7点評価が真っ向から割れている事実は、本作が退屈と密度の境界線に立つ作品である証拠だ。

「Bookmobile」は最後の8分間でわずかに音量が上がり、すぐに消える“クライマックス拒否”の構造を持つ。影響源はアーサー・ラッセル、ジミー・ジュフリー、ブライアン・イーノ(オブスキュア)、雅楽、環境音レコード「エンヴァイロメンツ」。ジャズでも現代音楽でもアンビエントでもない、境界のないアンサンブル芸術がここにある。

静寂を燃やし尽くす身体

僕は一度だけ、タウン・アンド・カントリーを生で観ている。恵比寿リキッドルーム、プリフューズ73の前座だった夜だ。

背伸びしなければ届かない鐘のように、クラッシュシンバルがドラマーの頭より高く掲げられ、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のビフのような体格のドラマーが、ひたすら均等なビートを刻み続けていた(このバンドにドラマーはいなかったはずだが、彼はサポートメンバーだったのだろうか?)。

それままるで、興奮でも恍惚でもなく、燃焼しているのに光を放たない巨大な薪のよう。演奏が終わると彼は椅子に倒れ込み、世界の終わりを見届けるような悲壮な顔で微動だにしなかった。

その表情こそ、このアルバムの本質かもしれない。タウン・アンド・カントリーは「静かな音楽」を演奏していたのではなく、静寂という器に閉じ込められた激しい音楽を演奏していたのだ。

ピッチフォークが「退屈」と切り捨てた部分は、むしろ密度の変化を聴く訓練を要求するポイントだ。音が変わっているのではない。聴く側の時間感覚が変質する。

だから『C’mon』は、騒音を拒否したのではなく、静寂の内部で完全燃焼するという選択を記録したアルバムである。

DATA
  • アーティスト/タウン・アンド・カントリー
  • 発売年/2002年
  • レーベル/Thrill Jockey
PLAY LIST
  1. Going to Kamakura
  2. I’m Appealing
  3. Garden
  4. The Bells
  5. I Am So Very Cold
  6. Palms
  7. Bookmobile