2026/3/22

『グーグーだって猫である』(2008)徹底解説|犬童一心が描く、大島弓子の宇宙と猫との愛しき日々

『グーグーだって猫である』(2008年/犬童一心)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー

10段階評価
5
OKAY

概要

『グーグーだって猫である』(2008年)は、大島弓子の半自伝的漫画を原作に、吉祥寺を舞台にした漫画家・麻子の再生の物語。愛猫グーグーの去勢手術を前に、子宮ガンを患った麻子は、自らの身体的喪失と向き合う。猫と人間、飼い主と生命、失うことと生きることが重なり合い、彼女の中で“生と性”の境界が静かに揺らいでいく。

目次

去勢と切除のシンクロニシティ

犬童一心という映画作家のフィルモグラフィーを眺めると、ある共通の質感が浮かび上がってくる。それは、透明で冷ややかな抒情性の裏側に、ドロリとした生と死の根源的な痛みが隠されていることだ。

メゾン・ド・ヒミコ』(2005年)で性愛の多様性から生の寂寥を炙り出し、『黄泉がえり』(2003年・脚本)で死者の帰還という奇跡を乾いた視線で描いた彼が、伝説の漫画家・大島弓子の自伝的作品『グーグーだって猫である』(2008年)を撮るのは、もはや必然だったと言える。

グーグーだって猫である
大島弓子

だが、しかし!本作は、可愛い猫の癒やし映画などという甘っちょろいレッテルを、冒頭数分で粉々に粉砕する、極めて冷徹で硬派な死生観の物語なのである。

主人公は、小泉今日子演じる漫画家・麻子。彼女は愛猫グーグーの去勢手術を決意するのだが、同時に彼女自身も子宮ガンを宣告され、子宮を摘出しなければならない状況になる。

猫の去勢と、女性性の切除。このキーワードを軸に、映画は「生」と「性」が強制的に分離させられていくプロセスの痛みを、吉祥寺の柔らかな光の中で静かに、しかし容赦なく描き出していく。

犬童監督のカメラは、小泉今日子のたおやかな佇まいを映しながらも、その内側で女性である部分を失い、それでも表現者として生き続けなければならない肉体の軋みを、冷たい透明さで捉え続ける。

印象的なのは、麻子が淡い想いを寄せる青年・沢村(加瀬亮)に切り出す「二つのお願い」のシーン。一つは「もしもの時に猫を預かってほしい」。だが、劇中で明言されない「もう一つの願い」にこそ、犬童映画の真意が潜んでいるはず。

これは僕の憶測だが、それは「私が女でなくなってしまう前に、私を抱いてください」という、死を前にした剥き出しの生の渇望ではないだろうか?

犬童一心が描く「生」とは、常に「性」と分かちがたく結びついた、抗いようのない衝動だ。この一瞬の渇望こそが、去勢と切除という空虚を埋めるための、唯一の救いとして機能している。

死の使者マーティ・フリードマン

本作の舞台は、「住みたい街ランキング」のド定番、吉祥寺だ。井の頭公園の緑、ハモニカ横丁の雑踏。ここには、大島弓子が愛した独特の空気感が色濃く漂っている。

だが犬童一心監督が描く吉祥寺は、単なるオシャレタウンではなく、日常と非日常、そして生と死が隣り合わせに共存する、ある種の「彼岸」のような空間として設計されている。

そしてこの街の記号性を決定づけているのが、元メガデスのギタリスト、マーティ・フリードマンだ!!!!!

彼は劇中で、文字通り死神として降臨する。悪魔の扮装をして現れる彼と、死んだ愛猫サバが対話するシーン。死を司る者が、生命のバトンタッチ(サバからグーグーへ)を媒介する。このアンビバレンツな逆説こそ、犬童監督が一貫して追求してきた「死を内包した生」の真骨頂だ。

吉祥寺という幸福な日常のすぐ裏側に、マーティのような異形な死が常にスタンバイしているという事実。犬童はこのキャスティングによって、生の美しさとは死という背景があってこそ成立する「束の間の幻影」であることを、最高にアイロニカルな形で証明してみせたのだ。

この幻想的な世界観を支えるのが、細野晴臣による至高のサウンドトラックだ。『メゾン・ド・ヒミコ』に続く犬童とのコラボレーションだが、今回の音楽はイタリア映画のようなペーソスと、小気味よいユーモアが絶妙にブレンドされている。

行方不明になったグーグーを追うスラップスティックなシークエンスは、ルイ・マル監督の『地下鉄のザジ』(1960年)へのオマージュを思わせる軽やかさに満ちている。

地下鉄のザジ
ルイ・マル

だが、その軽快なリズムに身を任せていると、ふとした瞬間に細野のベースラインが不穏な影を落とす。その軽さと影の同居こそが、大島弓子の原作が持つ「悲しみの極北に漂う透明な可笑しみ」を見事に翻訳しているのだ。

少女漫画の深淵と、表現という名のサバイバル

そもそも、大島弓子に代表される「24年組」の少女漫画には、常に通底する死の匂いがある。それは夢見がちな少女の幻想ではなく、喪失と再生、憧憬と絶望の激しい往還を描くための、極めて哲学的な戦いだ。

犬童一心が本作を映像化したのは、彼自身の作家性が「少女漫画的な繊細な感性」と「映画的な冷徹な論理性」を併せ持っているからだろう。

彼はグーグーという新しい命を、単なる癒やしの道具としては扱わない。去勢された猫と、子宮を失った女。両者は等しく、身体的な欠落を抱えながら、それでもこの残酷な世界で「呼吸し、食べ、眠る」という日常を継続していく。

映画の終盤、麻子が再びペンを取り、漫画を描き始める姿には、言葉を超えた生の証明が宿っている。肉体の一部を失い、死の恐怖に晒されながらも、自らの内側から物語を紡ぎ出す。

この書く(描く)という行為こそが、死の使者マーティ・フリードマンに対する麻子の最大の抵抗であり、肯定だ。犬童映画のヒロインたちは、常に業を背負いながら、それを凛とした佇まいで受け入れていく。

中谷美紀が『ゼロの焦点』(2009年)で見せたような凄惨な狂気とは対照的に、小泉今日子が本作で見せるのは、静寂の中に潜む、鋼のような強靭な生命力。

ゼロの焦点
犬童一心

柔らかく、しかしどこまでも残酷に。犬童一心は『グーグーだって猫である』を通じて、生きるということがいかに滑稽で、いかに痛みを感じ、そしていかに素晴らしい循環の一部であるかを描いたのだ。

作品情報
  • 製作年/2008年
  • 製作国/日本
  • 上映時間/116分
  • ジャンル/ドラマ
スタッフ
キャスト
犬童一心 監督作品レビュー