犬童一心作品に、どこか冷ややかな手触りが感じられるのは、繊細で叙情的なタッチのなかに、「生」と「死」という根源的なテーマが隠蔽されているからだ。
「たおやかさに潜む痛切さ」、「叙情性のなかに佇む残酷性」といった、彼のフィルモグラフィーに通底している二律背反的なアンビバレンスも、それに起因している。『メゾン・ド・ヒミコ』、『死に花』、『眉山』、脚本家として参加した『黄泉がえり』など、その作例は枚挙に暇ない。
しかも犬童一心は、その「生」を臆面なく「性」に置換してしまうものだから、フィルムから生々しさがどろりと滲み出てしまう。
大島弓子の半自伝的エッセイ漫画を映像化した、『グーグーだって猫である』も、吉祥寺を舞台に繰り広げられる日常スケッチ作品でありながら、犬童的な「生々しさ」はしっかりキープ。具体的にいえば、それは「去勢」によって表象される。
キョンキョン演じる女性漫画家の麻子さんは、愛猫のグーグーを去勢しようとするし、その麻子さんも子宮ガンの除去のために、自分のオンナの部分を諦めざるを得なってしまう。
彼女が秘かに想いを寄せる加瀬亮に対して、「二つお願いがあるんです」と切り出したのは、「グーグーを預かって欲しい」というお願いとは別に、ズバリ「私が女性の部分を無くしてしまう前に、私を抱いてくれませんか?」というストレートな懇願だったのではないか?
また「死」を象徴する悪魔を、マーティ・フリードマンが演じているのも興味深し。彼は元メガデスのギタリストだった訳で、もうそのまんまのキャスティング。
この映画において彼は、先立ってしまったネコのサバと麻子さんを、現世で再び引き合わせる仲介役として登場する。死を司る者が、生(性)へと躍動する触媒として機能しているのだ。このアンビバレンスさこそが、いかにも犬童一心的なエッセンスである。
『メゾン・ド・ヒミコ』に続いて音楽を担当した細野晴臣による、肩の力が抜けまくったハートウォーミングなサウンドは、古き良きイタリア映画のようなペーソスに満ちている。
行方不明のグーグーを追いかけるスラップスティックなシーンなんぞは、ルイ・マルの傑作映画『地下鉄のザジ』を意識か。
しかしサウンドトラックに耳を澄ませば、どこかメランコリーな、暗い影を落としていることに諸兄は気づかれるだろう。そもそも少女マンガにはどこか死の匂いがする。
この企画は犬童一心自身が持ち込んだものではないらしいが、彼が『グーグーだって猫である』を映像化したのは、必然だったのだ。
- 製作年/2008年
- 製作国/日本
- 上映時間/116分
- 監督/犬童一心
- 脚本/犬童一心
- 原作/大島弓子
- エグゼクティブプロデューサー/豊島雅郎、樫野孝人、大澤善雄、和崎信哉、井上伸一郎、御領博、キム・ジュソン、石井晃
- 製作総指揮/豊島雅郎
- 製作/久保田修、小川真司
- 撮影/蔦井孝洋
- 美術/磯田典宏
- 音楽/細野晴臣
- 編集/洲崎千恵子
- 衣装/宇都宮いく子
- 小泉今日子
- 上野樹里
- 加瀬亮
- 大島美幸
- 村上知子
- 黒沢かずこ
- マーティ・フリードマン
- 大後寿々花
- 田中哲司
- 村上大樹
- 小林亜星
- 松原智恵子
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