【思いっきりネタをばらしているので、未見の方はご注意ください。】
ティム・バートンが『バットマン』で提示したジョーカーは、趣味の悪いジョークと狂気に満ちたブラックユーモアをゴッサムシティーに蔓延させる、甚だ困った人物として描かれていた。
なんぴとも理解できない究極のインサイダー・アートに、嬉々としていそしむ異形のカリスマ。云わばティム・バートンが偏愛するフリークス趣味の延長線上に、ジャック・ニコルソン演じるジョーカーは存在したのである。
しかし『ダーク・ナイト』におけるジョーカーは、全く別次元の存在。彼は極めて理知的でアナーキーなテロリストだ。
自らの手で殺戮の限りを尽くしてドス黒い喜びに身を浸らせるのではなく、人間誰しもが抱えている“悪”を増幅させることによって、盲目的に性善説を信じているバットマンを絶望のドン底に叩き落す。
終わらない悪夢という状況を作り出し続けること、それこそがジョーカーの目的なのだ。モラルの境界線上で毒々しい笑い声をあげながら、彼は人類の倫理観、正義感に挑戦するんである。
「俺は貴様を殺したくない。バットマン、貴様は俺を完成させてくれるからだ」という鬼畜コメントをことなげに吐いてしまうヒース・レジャーは、まさに一世一代の怪演。
その圧倒的な存在感は、マジで悪魔が降臨したか、と思うほど(彼はこの撮影後に薬の併用・過剰摂取による急性薬物中毒で事故死した。悪魔に魅入られたか?)。だがしかし本作のキーとなる人物は、ジョーカーでもバットマンでもなく、アーロン・エッカート演じるデント検事だろう。
ゴッサムシティの希望の光となるべく、高潔な魂と類稀な行動力で街を浄化しようと努める若き検事。“黒い騎士”バットマンは彼こそがヒーローすなわち“白い騎士”であると確信し、街の平和を託そうとする。
そもそもバットマンとは、完全無欠なヒーローであるスーパーマンのカウンターとして誕生した、アンチ・ヒーローな存在だ。よってこのシーンはヒーローの座の禅譲という意味ではなく、長らく不在だったヒーローがついに誕生した瞬間だったのである。
しかしジョーカーの悪魔的智謀によって、恋人レイチェルが殺害されるやいなや、デントは怒りと絶望に満ちた復讐者に失墜してしまう。それはまるで、往年のチャールズ・ブロンソン主演映画のごとく。
人生とは単なる運・不運の連続であるという刹那的な哲学のもと、コイン・トスで他人の運命をも決定しようとする怪人トゥー・フェイスとなった彼は、残虐非道な悪に手を染めていくのだ。
おそらく『ダーク・ナイト』が画期的なのは、「正義と悪」という単純な二項対立のテンプレートが、ヒーローの突然な“転向”によって、「悪」一色に塗り替えられてしまう恐怖をヴィヴィッドに描出した点にある。バットマンは、デント検事による警官殺害の罪を自分になすりつけるように主張して去っていく。
全ては、ゴッサムシティの希望の灯りを消さないがために。ヒーロー不在の真実を皆に隠匿するがために。
しかしこのバットマンの選択にすら釈然とできない我々観客のモヤモヤした思いこそ、おそらくクリストファー・ノーランが仕掛けたかった最大のトラップなのである。
クライマックスのたたみかけるようなアクションシーンの連続で、観客は状況がさっぱり掴めないまま物語が進行してしまうという編集的な問題や、ケイティ・ホームズが降板したレイチェル役にマギー・ギレンホールってどーなのよという問題もあるかとは思うが、『ダーク・ナイト』は一見に値する黙示録的作品だ。
全米興行収入で歴代興収No.1の『タイタニック』(1997年)に次ぐ5億ドルを突破したらしいが、このような作品が記録的なメガヒットを飛ばしたというのもスゴい話だと思う。
もはやアメリカ人にとっても「ヒーローの不在」は既成事実となっているようだ。
- 原題/The Dark Knight
- 製作年/2008年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/152分
- 監督/クリストファー・ノーラン
- 製作総指揮/ベンジャミン・メルニカー、マイケル・E・ウスラン、ケヴィン・デ・ラ・ノイ、トーマス・タル
- 製作/チャールズ・ローブン、エマ・トーマス、クリストファー・ノーラン
- 脚本/クリストファー・ノーラン、ジョナサン・ノーラン
- 原案/クリストファー・ノーラン、デヴィッド・S・ゴイヤー
- 撮影/ウォリー・フィスター
- 美術/ネイサン・クローリー
- 音楽/ハンス・ジマー、ジェームズ・ニュートン・ハワード
- 衣装/リンディ・ヘミング
- クリスチャン・ベール
- ヒース・レジャー
- アーロン・エッカート
- マイケル・ケイン
- マギー・ギレンホール
- ゲイリー・オールドマン
- モーガン・フリーマン
- モニーク・ガブリエラ・カーネン
- ロン・ディーン
- キリアン・マーフィ
- エリック・ロバーツ
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