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みゆき/あだち充

『みゆき』二人の“みゆき”と揺れる青春の正体

『みゆき』(1980年〜1984年)は、若松家で暮らす高校生・若松真人が、妹の若松みゆきと、同名の同級生・鹿島みゆきに出会ったことから始まるラブコメ作品。学校生活やアルバイト、友人との交流、家庭でのやり取りが続くなか、誤解や気遣いが重なり、名称の一致が招く混乱も広がっていく。

禁断の関係を笑いに包む──あだち充的「軽やかさ」の倫理

あだち充の作品世界は、一見すると軽妙で、どこまでも平穏に流れていくように見える。しかしその穏やかさの下には、常に倫理的緊張が潜んでいる。

『みゆき』はその典型だ。物語の中心に据えられたのは、“兄妹の恋愛”という、極めて危ういテーマである。だが、あだちはこの主題をあからさまな禁忌として扱わない。

むしろラブコメという形式を通して、読者がその危険を意識しないまま、甘美な感情を安全に消費できるよう仕立てているのだ。

若松真人は、あだち作品に典型的な“優柔不断で軟弱な主人公”である。外見や運動能力に際立つものはなく、性格は穏やかで凡庸。だがこの凡庸さこそが、読者の自己投影を容易にする。

恋の相手が二人の「みゆき」――つまり同名の女性であることが、物語の構造に象徴的な曖昧さを与えている。主人公の性的好奇心や下世話な妄想さえも、あだちの筆にかかると“青春の無垢”へと転化されてしまう。このトーンの中和こそが、あだち充の最大の話術である。

ギャグという緩衝装置──緊張と照れ隠しの構造

あだち充が用いる特有のリズムは、「緊張と照れ隠し」の往復運動にある。決定的な恋愛の場面で、彼はしばしばギャグを挿入する。これは単なる笑いではなく、感情の高まりを抑制し、読者に“安全な観賞距離”を与えるための緩衝材だ。

『タッチ』や『ナイン』でも見られるように、恋愛のクライマックスに至る寸前でのコメディ要素が、物語全体を「現実から一歩引いた夢の世界」へと変質させる。つまり、ラブコメの“コメ”部分は、禁忌の“ラブ”を包み隠すオブラートとして機能している。

もし真剣な恋愛劇として描かれたなら、兄妹愛という主題は読者の倫理的防御反応を呼び起こしてしまうだろう。しかしあだちは、それを軽やかにすり抜けてみせる。笑いが倫理の壁を越えるのだ。

恋愛の不穏な深層──古典から大江健三郎へ

物語が進むにつれ、『みゆき』は単なる三角関係を超えていく。そこには、兄妹という血縁関係をめぐる微妙な緊張が、ほのかに、しかし確実に漂っている。

あだちはこの“危険水域”をあくまで軽い筆致で泳ぎ切るが、文学的に見れば、それは『源氏物語』や大江健三郎『同時代ゲーム』に連なる主題でもある。

光源氏が義母・藤壺に恋慕する構図は、愛と禁忌の曖昧な境界を描き出した古典の原点であり、大江はそれを現代文学の病理として拡張した。だが、あだち充のアプローチはそのどちらとも異なる。

彼は“罪”を笑いに置換することで、恋愛を社会的モラルの外側に置く。笑いは倫理の枠を溶解させ、観客に無意識のうちに禁忌を享受させる装置となる。『みゆき』における兄妹の情愛は、真剣に描かれるほどではなく、ギャグに救われるほどに軽い。

だがその軽さこそが、危険な主題を成立させるための唯一の方法なのだ。

あだち充の“軽さ”の戦略──危険を包み込むスタイル

あだち充の“軽さ”は、決して単なる娯楽的要素ではない。それは戦略的なスタイルであり、禁断のテーマを表現するための倫理的システムでもある。

主人公の軟弱さ、照れ隠しのギャグ、穏やかな筆致――これらはすべて、読者の罪悪感を緩和し、危ういテーマを受容可能にするための装置だ。

この“軽さ”は同時に、あだち充の作品が長く愛される理由でもある。恋愛を悲劇としてではなく、ユーモアと曖昧さに満ちた「日常の延長」として描くこと。それが、現実の倫理とフィクションの快楽を両立させる彼の術である。

『みゆき』は決して“兄妹の恋”を肯定しているわけではない。むしろその危うさを知りつつ、笑いによってそれを中和する。あだち充は、読者が罪悪感を抱かずに禁忌を覗き見るための“安全装置”を、物語構造の中に緻密に組み込んでいるのだ。

笑いの倫理──あだち充が提示した「日本的タブーの受容」

『みゆき』の核心は、恋愛そのものよりも、「禁忌をいかに表現しうるか」という表現倫理にある。あだち充は、重いテーマを重く描かない。社会的に危うい題材を、淡いトーンと軽いユーモアで包み込み、誰も傷つけない物語へと転化する。

ここには、古典文学にも通じる“日本的タブーの処理法”がある。悲劇ではなく滑稽、断罪ではなく寛容。彼はその伝統を、80年代の少年漫画という大衆媒体の中で再構築した。

軟弱な主人公、照れ隠しのギャグ、そして危険な恋の三角関係。すべてが一見軽く見えて、実は綿密な計算に裏打ちされたバランスの上に立っている。

『みゆき』は、笑いの力で倫理をすり抜けた希有な恋愛譚であり、あだち充という作家が「軽さ」に託した深い倫理的問いの結晶でもある。

DATA
  • 著者/あだち充
  • 発表年/1980年〜1984年
  • 掲載誌/少年ビッグコミック
  • 出版社/小学館