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A Moon Shaped Pool/レディオヘッド

『A Moon Shaped Pool』──余白の美学が奏でる、喪失と再生のシンフォニー

『A Moon Shaped Pool』(2016年)は、イギリスのロックバンド・レディオヘッド(Radiohead)が発表した通算9作目のスタジオアルバム。弦楽アレンジにはロンドン・コンテンポラリー・オーケストラが参加し、「Burn the Witch」、「Daydreaming」、「True Love Waits」などを収録。電子音とストリングスが融合した構成で、失われた時間や愛への想起をテーマとする作品となった。

喪失のレーベル──沈黙から生まれた場所

『A Moon Shaped Pool』は、レディオヘッドの独立と再接続の記録である。

『In Rainbows』(2007年)と『The King Of Limbs』(2011年)がセリフリリースによる実験的な流通形式を採用していたのに対し、本作はXLレコーディングスというレーベルを通じて発表された。

1989年創設の同レーベルは、アデル、ベック、フランク・オーシャン、シガー・ロス、ヴァンパイア・ウィークエンドらを擁する英国の独立拠点。商業性よりも芸術性を優先するその姿勢は、レディオヘッドが追い求めてきた“自由”の在り方と響き合う。

『The King of Limbs』期にも彼らは自らのレーベル〈Ticker Tape Ltd.〉を通じて作品を発表しつつ、CDとアナログ盤はXLから流通させていた。つまり、この関係性は単なる契約ではなく、信頼と距離を保つ共同体のようなものだ。

本作において彼らは、かつてのDIY的実験精神を残しながら、再び「他者と関わる音楽」へと回帰している。トム・ヨークと長年のパートナーであったレイチェル・オブライエンとの関係の終焉は、作品全体の情感を覆っている。

失われた愛を、音の中で“記録”し、“赦し”へと昇華する。『A Moon Shaped Pool』は、ロック・バンドが社会的制度と個人的痛みの両方を引き受けながら、その中で静かに呼吸を取り戻すためのアルバムである。

余白の構築──沈黙が鳴らす音楽

このアルバムを支配するのは、“音が鳴らない時間”の美しさだ。『Kid A』(2000年)や『Amnesiac』(2001年)での電子的洪水、『In Rainbows』での肉体的な躍動とは異なり、ここでは音の隙間が意図的に広げられている。

最初の一音が鳴る前から、音楽は始まっている。オープニング「Burn the Witch」では、弦の鋭い連打が群衆の緊張を呼び起こし、「Stay in your homes」「Burn the witch」という言葉が、監視社会の抑圧と異端排除の寓意として響く。

ヨークの声は怒りではなく、観察者の冷静な震えである。「Daydreaming」は過去を漂う亡霊のようなピアノ曲で、時間の堆積を抱えたまま歩く人間の孤独を描く。

「Decks Dark」では崩壊した関係の残響が闇の中に溶け、「Desert Island Disk」では孤立の中で救済を見つめる意志が静かに立ち上がる。音楽は語らず、ただ“在る”ことで意味を孕む。

ジョニー・グリーンウッドによる弦楽アレンジは、余白を支えるための建築的骨格であり、ロンドン・コンテンポラリー・オーケストラとの共同作業によって、音はロックの形式を離れ、シンフォニックな広がりへと解放される。

とりわけ「Burn the Witch」や「Glass Eyes」におけるストリングスは、フィルムスコアのような張り詰めた空気をまとい、音そのものが物語を語り出す。

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007年)で磨かれたグリーンウッドの映画音楽的感性が、バンドの表現に新しい呼吸をもたらした。

再生の残響──過去を抱いて歩く音

『A Moon Shaped Pool』は、喪失を歌うだけのアルバムではない。むしろ、失われたものを抱えながら再び立ち上がる“再生の儀式”である。

「Ful Stop」の反復ビートは、心臓の鼓動のように執拗に続き、内省の深みに聴き手を引きずり込む。「Identikit」では断片化されたギターとコーラスが絡み合い、音が崩れながらも構築されていく。そのプロセスは、壊れた関係の中に残る“再び愛する力”の比喩だ。

長年ライヴで演奏されながら未収録だった「True Love Waits」がラストに置かれていることは象徴的。ピアノの単音とヨークのかすれた声が「Just don’t leave」と繰り返す。

かつての熱情ではなく、失われた後に残る祈りとして。その余白には、愛の死と音楽の再生が同時に息づいている。レディオヘッドはこのアルバムで、過去の亡霊を静かに浄化した。

過剰な実験性を抑え、整然とした均衡の中で、感情の深層を響かせる。その成熟は、沈黙を恐れない勇気の証明である。ここでは音楽が世界を説明するのではなく、ただ世界の沈黙に寄り添う。ヨークの声は嘆きではなく、赦しの呼吸となる。

『A Moon Shaped Pool』は、音楽における“余白”の到達点である。レディオヘッドは、喪失を悲劇としてではなく、存在の更新として受け入れた。

沈黙は終わりではない。沈黙こそが、次の音を生む源泉である。トム・ヨークが最後に残した「Don’t leave」という言葉は、誰かへの懇願ではなく、音そのものへの祈りだ。このアルバムは、人間が生きるという行為そのものの、最も静かな証言である。

月のようにゆがんだ音の湖面に、すべての記憶が映り込み、やがて波紋のように消えていく。『A Moon Shaped Pool』──それは、音の余白が奏でる再生の詩である。

DATA
  • アーティスト/レディオヘッド
  • 発売年/2016年
  • レーベル/XL
PLAY LIST
  1. Bloom
  2. Morning Mr Magpie
  3. Little by Little
  4. Feral
  5. Lotus Flower
  6. Codex
  7. Give Up the Ghost
  8. Separator