『シモーヌ』(2002年)は、監督のアンドリュー・ニコルが脚本を手がけた『トゥルーマン・ショー』(1998年)と、鏡像的照応関係を結んでいる。
巨大なオープンセットであるシーヘブンに育ったジム・キャリーは、リアル・テレビドラマとして、この世に生を受けたときから、ずーっと聴衆の目にさらされ続けてきた存在だった。
やがて、自分が虚構の世界に生きてきたことを知ると、TVプロデューサーであるエド・ハリスの制止もきかず、現実世界へと飛び出していく…というのが『トゥルーマン・ショー』のおおまかな粗筋。
物語構造的には、世界を司る者としてのエド・ハリス(主体)、監視される者としてのジム・キャリー(客体)という“主体と客体のドラマ”だった。
この『シモーヌ』も、CG世界を司る者としてのアル・パチーノ(主体)、操作される者としてのシモーヌ(客体)という“主体と客体のドラマ”なのだが、スポットが当てられるのはあくまで主体側であるアル・パチーノのほうである。
自らが創造したミューズが、やがて己のコントロールがきかない危険な存在となり、パチーノ自身のアイデンティティーすらも揺り動かしてしまう。
現実世界への飛翔を果たす『トゥルーマン・ショー』のジム・キャリー、遺伝性肉体的欠陥をかかえながらもパイロットとして宇宙に飛び出す『ガタカ』(1997年)のイーサン・ホーク、JFK国際空港から出国をはかる『ターミナル』(2004年)のトム・ハンクスと、アンドリュー・ニコルが手がけた作品はどれも“内から外への越境”がテーマ。
だが『シモーヌ』では、カメラはあくまで外側に据え置かれる。“外から内への干渉”によって、その境界線が曖昧となり、現実世界を脅かしてしまうという、アイロニカルなドラマが展開されるのだ。
方法論は異なれど、アンドリュー・ニコルが抱えているテーマは一貫している訳で、ここまでひとつのモチーフにこだわり続けられるというのも、たいしたもんだと思う。
フィルターを使いまくった色彩感覚、ポートレートのようなグラフィカルな構図、チネチッタ風撮影所に代表される抜群のロケーションと、彼独特の映像センスも堪能できることだし、その才能は今日のハリウッドにあって、やはり頭一つ突き出た存在だと思う。
ここで不満を少々。シモーヌを演じるレイチェル・ロバーツが、サッパリ可愛くないっちゅーのはどういうことか!私見ながら、ちょっと蟹江敬三入ってると思われます。
シモーヌの正体を暴こうとするマスコミとのコミカルなやりとりも後半は少々ダレ気味だし、僕の愛するウィノナ・ライダーも、出演時間が異様に短いヒステリックな女優役という哀しい役どころだし、細部の豊穣さが過去のアンドリュー・ニコル作品に比べるとやや見劣りする感もあり。
ちなみにアンドリュー・ニコルはこの映画をきっかけにして、レイチェル・ロバーツと結婚したそうな。内と外を自在に越境する、
希有な才能を持ったこの映画作家は、現実世界でも「シモーヌ」を嫁にして、二つの世界を我が手におさめようとしているのか。
- 原題/S1m0ne
- 製作年/2002年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/117分
- 監督/アンドリュー・ニコル
- 製作/アンドリュー・ニコル
- 脚本/アンドリュー・ニコル
- 製作総指揮/ブラッドリー・クランプ、マイケル・デ・ルーカ、リン・ハリス
- 撮影/エドワード・ラックマン、デレク・グローヴァー
- 美術/ヤン・ロールフス
- 音楽/カーター・バーウェル、サミュエル・バーバー
- 衣装/エリザベッタ・ベラルド
- 特撮/ケイト・デマイン
- アル・パチーノ
- ウィノナ・ライダー
- レイチェル・ロバーツ
- キャサリン・キーナー
- エバン・レイチェル・ウッド
- プルート・テイラー・ビンス
- ジェイ・モーア
- ジェイソン・シュワルツマン
最近のコメント