『テイキング・ライブス』──アイデンティティを奪う者と奪われる者
『テイキング・ライブス』(原題:Taking Lives/2004年)は、カナダ・モントリオールを舞台に、連続殺人犯を追うFBIプロファイラーが、自らのアイデンティティを失っていく過程を描くサイコスリラー。原作はマイケル・ピエッチによる同名小説。アンジェリーナ・ジョリーとイーサン・ホークが対峙し、観察と欲望の境界が崩壊していく。
崩壊するサスペンス──因果を拒む物語構造
アンジェリーナ・ジョリー、イーサン・ホーク、キーファー・サザーランド、ジーナ・ローランズ──このキャストが並べば、通常ならば失敗は許されない。音楽はフィリップ・グラス、監督はD・J・カルーソー。A級の素材を揃えながら、完成したのはZ級の異形サスペンスだった。
『テイキング・ライブス』(2004年)は、プロットの崩壊そのものがテーマへと転化した奇妙な映画である。ストーリーは進行するたびに自己を裏切り、論理よりも情動が支配する。
そこには「理解不能な物語」を成立させる意図的な設計ではなく、映画の内部で無秩序が自然発生する“構造疲労”がある。だがその混沌の底に、現代的な不安が確かに沈んでいる。
本作は「先が読めないサスペンス」を標榜するが、読めないのは複雑だからではない。筋が破綻しているからだ。冒頭のロードムービー風の導入部は独立した短編のように精緻で、音楽と映像のテンポも抜群に冴えている。
しかしこのシークエンスが物語全体に与える影響はゼロ。構成的には完全な異物である。以降、事件は突発的に進行し、伏線は張られず、因果は放棄される。
イーサン・ホーク演じる連続殺人犯は、他人を殺してはその人生を“宿替え”のように奪うが、なぜ彼がその異常な衝動に取り憑かれたのか説明されない。「母に愛されなかったから」という短絡的な心理分析だけが提示され、ドラマは心理的必然を欠いたまま暴走する。
観客は動機を推測することを諦め、ただ“出来事”として殺人を目撃することになる。つまりカルーソーの演出は、サスペンスというジャンルの本質──“理解”への欲望──を裏切り、理解不能そのものを映すカメラへと変貌していく。
映画が事件を語ることをやめたとき、そこに立ち上がるのは、21世紀の不安定なリアリティそのものである。
アンジェリーナ・ジョリーの身体──観察者から被観察者へ
ジョリーが演じる捜査官は、知的で冷静なプロファイラーとして登場する。彼女は他人の行動を読み解く「観察者」であり、分析する知の化身である。
しかし、イーサン・ホークとの邂逅を境にその立場は崩壊する。彼女は分析する者から、観察される者へと転倒する。犯人と捜査官の関係は、次第に恋愛と暴力の同義語へと変質し、性の行為そのものが真実追求の妨害装置として機能する。
タナトスとエロスが一つの身体に同居し、理性は肉体に侵食される。ジョリーの演技は、捜査官という職能を剥がされていく過程そのものだ。彼女が抱擁するたび、知性の鎧が脱げ落ち、裸のまま世界に晒される。
カルーソーのカメラはその堕落を美化しない。冷たく、陰影のない照明の中で、ジョリーの表情は“感情の無音化”を象徴する。観客はそこに、女性の主体が崩壊し、他者の欲望に同化していくプロセスを見る。『テイキング・ライブス』はサスペンスではなく、知性が敗北する瞬間のポートレートとして成立している。
この映画を貫くモチーフは、「他人になること」だ。イーサン・ホークは殺人によって他者の人生を乗っ取る。一方でジョリーは、捜査の過程で自分というアイデンティティを喪失する。
加害と被害、男と女、観察者と被観察者──その境界はすべて溶け合う。カルーソーの粗い演出が、結果的にこの“同一性の崩壊”を可視化してしまう点が興味深い。モントリオールという多言語・多文化都市が舞台に選ばれたことも象徴的だ。
北米にありながらフランス語圏であり、アメリカ的合理主義とヨーロッパ的情動の交差点にあるこの都市は、自己同一性の揺らぎを空間的に体現している。
殺人者の母への執着、ジョリー演じる女性の孤独、そして都市の混成性。すべてが「私は誰か」という問いの変奏として響き合う。『テイキング・ライブス』が失敗作であると同時に奇妙に魅力的なのは、アイデンティティが破壊される過程を“物語の不安定さ”そのもので語っているからだ。
映像の不協和──崩壊する映画の構造美
カルーソーの演出には確かに荒さがある。だが、その荒さが映画的テクスチャーとして機能する瞬間がある。唐突に挿入されるクロースアップ、過剰に切り返される視点、統一されない照明の色温度。それらはすべて、登場人物の不安定な内面を反映するかのように揺れている。
特にクライマックスの殺人シーンでは、編集のリズムが完全に破綻し、空間的連続性が失われる。にもかかわらず、そこには奇妙な生々しさが宿る。構成が崩れた映画ほど、しばしばリアルに近づく。
カルーソーは意図せずして、完璧さよりも“壊れた現実”を撮ってしまった。映画は統御を失った瞬間に、むしろ真実を語り始める。『テイキング・ライブス』は、そんな“崩壊の美学”を体現した作品なのだ。
キーファー・サザーランドが登場して数分で退場し、ジーナ・ローランズが首を落とされる。俳優のネームバリューと物語の扱いの不均衡は、すべての秩序を無効化する。観客はその無秩序に呆れながらも、奇妙な快楽を覚える。映画は常に破綻の手前でしかスリルを獲得できないからだ。
アンジェリーナ・ジョリーの身体は、この崩壊を支える最後の支柱となる。彼女がスクリーン上で動くたび、作品は混乱しながらも生き延びる。A級の才能を総動員したZ級の混沌──それは単なる駄作ではなく、映画というシステムそのものの限界を露呈した出来事である。
『テイキング・ライブス』は、計算ではなく映画そのものが自壊する瞬間を記録してしまった稀有な作品なのだ(褒めてません)。
- 原題/Taking Lives
- 製作年/2004年
- 製作国/アメリカ、カナダ
- 上映時間/103分
- 監督/D・J・カルーソー
- 製作/ マーク・キャントン、 バーニー・ゴールドマン
- 製作総指揮/ブルース・バーマン、デヴィッド・ハイマン、デイナ・ゴールドバーグ
- 脚本/ジョン・ボーケンキャンプ
- 撮影/アミール・M・モクリ
- 原作/マイケル・パイ
- 音楽/フィリップ・グラス
- アンジェリーナ・ジョリー
- イーサン・ホーク
- キーファー・サザーランド
- ジーナ・ローランズ
- オリヴィエ・マルティネス
- チェッキー・カリョ
- ジャン=ユーグ・アングラード
- ポール・ダノ
