『ミッシング』(1982年/コスタ・ガヴラス)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『ミッシング』(原題:Missing/1982年)は、コスタ・ガヴラス監督が1973年チリで起きた軍事クーデターを背景に、失踪したアメリカ人青年チャールズ・ホーマンの行方を追う家族の苦闘を描いた政治サスペンス。混乱するサンティアゴで、父エド(ジャック・レモン)と妻ベス(シシー・スペイセク)は政府の沈黙と矛盾に直面しながら、失われた真実へ手を伸ばしていく。国家の暴力が個人の人生を呑み込む中、二人の捜索はやがて信念と現実の狭間で揺れ動く。
- 第55回アカデミー賞:脚色賞
- 第35回カンヌ国際映画祭:パルム・ドール、男優賞
- 1982年ニューヨーク映画批評家協会賞:作品賞(次点)
- 1982年ボストン映画批評家協会賞:脚本賞
- 1982年ナショナル・ボード・オブ・レビュー:作品賞トップ10
- 第56回キネマ旬報(外国映画):第3位
政治の闇を照射するはずが家族叙情へと偏位する構図
『ミッシング』(1982年)は、1973年にチリのサンティアゴで発生した凄惨な軍事クーデターを背景に据えながら、国家の暴力と沈黙をめぐる恐ろしい物語を、残された家族の眼差しから静かに捉え直した作品だ。
サルバドール・アジェンデ率いる人民連合政権は、軍部とアメリカのドロドロとした利害が絡み合う圧力によってあっけなく崩壊し、アウグスト・ピノチェト主導のクーデターによって社会構造は一夜にして転覆してしまった。
この大混乱の只中でアメリカ人青年チャールズ・ホーマンがこつ然と姿を消したという史実は、国家権力が個人の生を容赦なく飲み込んでいく瞬間の生々しい象徴でもある。
しかしコスタ=ガヴラス監督は、この巨大な政治的暴力を真正面から告発するのではなく、行方を探す父親のエド(ジャック・レモン)と、息子の妻であるベス(シシー・スペイセク)が真相へ迫ろうとする泥臭い過程に、カメラの焦点を移している。
保守的な義父とリベラルな義娘がぶつかり合いながら見せる動揺や焦燥は、クーデターという巨大な装置の前に放り出された一個人の脆さを浮き彫りにしていく。
ただ、僕の目には、そのパーソナルすぎる視線が時に政治の輪郭を曖昧にし、事件の核心へ踏み込む鋭さをいくぶん鈍らせてしまっているように映る。
政治の深い闇を照らすはずの映画が、いつの間にか家族の叙情的なドラマへと引き寄せられ、物語の力点がフラフラと揺れ動いてしまうのだ。
コスタ=ガヴラスといえば、『Z』(1969年)、『告白』(1970年)、『戒厳令』(1972年)などで国家権力とイデオロギーの衝突を苛烈なテンションで描いてきた生粋の社会派監督。
彼の過去作に漂うむせ返るような熱気は、政治的抑圧を打ち砕く闘争の映画そのものであり、映像自体が怒りを帯びて疾走していた。しかし本作では、カメラが義父と義娘の関係性に強く惹きつけられるあまり、肝心の政治空間の広がりがずっと後景へと押しやられている。
結果として、チャールズ失踪の背後にある政治的構造という物語の太い背骨が、家族内のヒステリックな葛藤に埋没してしまう危うさを孕んでいるのだ。
国家の巨大な断層を描くのか、それとも個人の情念を追うのか。本作はそのどちらにも振り切れず、両者の緊張関係が少しばかりぼやけたまま進行していく。
義父と義娘の圧倒的な熱量と物語に生じるねじれ
物語の中核を担うのは、ジャック・レモンとシシー・スペイセクという稀有な名優二人が織り成す、共通の愛する者を失った者同士特有の、深くヒリヒリとした関係性である。
敬虔なキリスト教徒であり保守的なビジネスマンの父エドは、異国の地で息子の足跡を追う過程で、自身が長年信じて疑わなかったアメリカ的な正義や価値観が音を立てて崩れ去る瞬間に直面する。
一方、理想主義でリベラルな思想を持つ義娘ベスは、国家に対する強い不信感をすでに抱えつつも、夫の失踪という重すぎる現実を前に感情のコントロールを失い、怒りと悲しみをそのまま言葉にして周囲にぶちまけてしまう。
二人の演技は常に強い内圧を持ったままスクリーン上で激しく交錯し、チリ軍部の非情な対応に絶望すればするほど、その密度は息苦しいほどに濃くなっていく。
しかし皮肉なことに、この俳優たちの演技力の異常な高さが、物語構造の脆さを逆に露呈させてしまう局面がある。二人の感情の振幅が高まれば高まるほど、コスタ=ガヴラスの演出は冷徹な政治的緊張を描くことから離れ、わかりやすい情緒の昂りへと流れていってしまうからだ。
たとえば、非協力的なアメリカ領事館への疑念が急速に膨らんでいくプロセスは、本来ならば政治的な陰影を最も濃く塗り込めるべき重要なサスペンスの場面である。
にもかかわらず、そこでのやり取りは義父と義娘が抱え込んだストレスを爆発させる家族の口喧嘩の延長として消化されてしまう。お役所仕事の極みのような領事館員の態度は確かに腹立たしいが、そこに巨悪の影を感じる前に家族ドラマの枠に収まってしまうのだ。
加えて、チャールズの友人であるテリー(メラニー・メイロン)の存在も、物語の緊張感を少しばかり邪魔している。リゾート地ビーニャ・デル・マールでの彼女とチャールズの短い滞在の描写は、二人の関係性に無駄な恋愛的ニュアンスを匂わせるだけで、事件の政治的な核心とはまったく接続していない。
こうした私的な匂いがドラマの軸線をぼやけさせてしまい、観客に本筋とは関係のない推測を誘発するだけで、物語の推進力にはちっとも寄与していないのだ。
カンヌが突きつけた政治的文脈
この映画が抱える最大の弱点は、政治的な真相へ迫るサスペンスとしての推進力が、終盤に向けて急速に萎んでいく構造にある。
チャールズが密かに残していた日記からアメリカ政府の暗躍と加担疑惑が浮上するシークエンスは、本来であれば映画全体を貫くべき最も重要な問いであり、観客を底知れぬ政治の深部へと引きずり込む強力なフックとなるはずだった。
だがこの決定的なパートは、物語も4分の3を過ぎたあたりでいささか唐突に提示される。そのため、サスペンスとしての土台が十分に固まらないまま、その衝撃的な事実が足早に通り過ぎてしまう。政治的な緊張感の蓄積が決定的に不足しており、物語の核へ向かう時間軸の配分が不均衡なまま結末へと雪崩れ込む。
そして、この物語の弛緩に思わぬ追い打ちをかけているのが、巨匠ヴァンゲリスが手がけた印象的な映画音楽。彼の代名詞とも言えるシンセサイザーのサウンドは、本来であれば宇宙的な空間の広がりや時間性を強調する、とても美しく抽象的な叙情を帯びている。
しかし、本作が描くべきチリ・クーデターの血生臭さや権力との対立構造に対しては、その浮遊するような心地よい音響が不必要にセンチメンタリズムを増幅させてしまう。
ヴァンゲリスの音楽はあまりにも綺麗すぎて、怒りや理不尽さよりも、個人の哀切やノスタルジーばかりが画面の手前へと引っ張り出されてしまうのだ。豊潤な響きが、監督が本来突き刺そうとしていたアメリカの偽善という重厚な主題を結果的に霞ませてしまっているのだ。
本作は第35回カンヌ国際映画祭で見事パルム・ドールを獲得し、ジャック・レモンに男優賞をもたらした。しかし、この受賞には極めて重要なコンテクストが存在する。
実はこの年、最高賞を同時受賞したのは、ユルマズ・ギュネイ監督の『路』(1982年)だった。トルコの過酷な軍事政権下において、なんと獄中から助監督に細かな指示を出して撮り上げられたという、存在そのものが権力への命がけの抵抗であるような作品だ。
この圧倒的な政治的文脈を背負った『路』と、ハリウッド資本で洗練された家族劇に着地した『ミッシング』がパルム・ドールを分け合ったという事実は、当時のカンヌが発した強烈な政治的メッセージであると同時に、本作が抱えるある種の限界を浮き彫りにしているようにも思える。
コスタ=ガヴラス作品に本来期待される怒りの映画としての熱量はどこか空回り気味であり、物語はよく出来た家族劇の文脈に小さく収まってしまっている。
政治の闇へ鋭く切り込むはずの刃は少しばかり鈍り、権力構造の恐ろしさは見えにくくなっている。結果として本作は、国家の暴力を激しく告発する作品としてよりも、残された義父と義娘の喪失とそれに伴う情緒の揺らぎを静かに描いたヒューマンドラマとして受け取るのが正しいのかもしれない。
そのいびつなねじれこそが、この映画の評価を難しくさせ、同時に語り継がれる理由になっているのではないだろうか。
参考文献・出典
- 原題/Missing
- 製作年/1982年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/122分
- 監督/コスタ・ガヴラス
- 脚本/コスタ・ガヴラス、ドナルド・スチュワート
- 製作/エドワード・ルイス、ミルドレッド・ルイス
- 製作総指揮/ピーター・グーバー、ジョン・ピーターズ
- 原作/トーマス・ハウザー
- 撮影/リカルド・アロノヴィッチ
- 音楽/ヴァンゲリス
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