センチメンタリズムに傾倒しすぎてしまった、社会派ドラマ
映画『ミッシング』(1982年)は、1973年にチリの首都サンティアゴ・デ・チレで勃発した軍事クーデターが背景になっている。
もともとチリは、サルバドール・アジェンデ率いる人民連合が社会主義的政権を担ってきたのだが、これに軍部が猛反発。「アカは世界中から駆逐すべし!」を妄信するアメリカの支援もあって、アウグスト・ピノチェト将軍らによってクーデーターを企てるのだ。
そんなさなか、アメリカ人男性チャールズ・ホーマンが失踪するという事件が発生。ドラマは、彼に何が起きたのか?という問いを、彼の父親と妻の視点から描いている。
監督を務めたコスタ・ガウラスといえば、『Z』(1969年)、『告白』(1970年)、『戒厳令』(1972年)など、政治的な題材をマグマが沸き立つかのような熱気で映像化してきた御仁。
熱弁をふるうコスタ・ガヴラスのツバがガンガン観客に降りかかってくるような、ややもすれば独善的すぎるほどのパワーで物語を転がしていくのが彼の語り口だが、この『ミッシング』は家族ドラマとしての骨格を優先させたせいか、ストーリーテリングが妙におとなしい。
となれば当然のごとく、一人息子チャーリー(ジョン・シェア)の行方を心配する父親役のジャック・レモンと、義娘のシシー・スペイセクのドラマが本作の見物になるのだが、これがなかなか深刻。
もちろん名優二人による演技のアンサンブルは素晴らしいのだが(ジャック・レモンはこの演技でカンヌ国際映画祭の男優賞を獲得)、演出的にアメリカ領事館に不信感を抱くようになる過程が、どーにもこーにもうまく消化しきれていない。僕の目には、「ストレスがたまりまくって手当たり次第にわめき散らす、ヒステリー状態の父娘」にしか見えないのだ。
敬虔なキリスト教徒で保守的な父親、左翼的で理想主義者の娘というギスギスした関係が、事件をきっかけに修復され、真の親子関係を結ぶに至る、というプロット自体は悪くない。
しかしながら、ポリティカル・サスペンスには不釣り合いなぐらいに、ヴァンゲリスのポワ~ンとしたテーマ(これ自体はいい曲なんですが)が流れるたび、ドラマがおセンチな方向に向かってしまって、いまひとつコスタ・ガヴラスが訴えたかったであろう「アメリカ政府の偽善に対する怒り」が見えにくくなってしまっている。
あと、どうでもいいことですけど、テリー(メラニー・メイロン)っていうチャールズの女友達が登場するんだが、二人でリゾート地のビーニャ・デル・マールヘ日帰り旅行に出かけて、キャッキャしまくっていて、浮気感がプンプン。
ジャック・レモンも「彼女と息子はどういう関係だったんだ?」と詰問する場面が出てきたりする。この二人の関係はドラマ進行上は何ら影響はない訳で、ヘンに勘ぐられてしまうような描き方はしない方が良かったんじゃないか。
サスペンス的な展開も弱い。失踪したチャールズが残した日記から、二人は「クーデターにアメリカ政府が加担していたんでは?」という疑念を濃くするんだが、そのシークエンスが映画の4/3を過ぎたあたりで登場するものだから、観ているこっちは今ひとつ事態の展開をつかめないのだ。
第35回カンヌ国際映画祭で、最高賞のパルム・ドールを受賞した作品ではあるが、個人的にはあまりノレない映画でした。
- 原題/Missing
- 製作年/1982年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/122分
- 監督/コスタ・ガヴラス
- 製作/エドワード・ルイス、ミルドレッド・ルイス
- 製作総指揮/ピーター・グーバー、ジョン・ピーターズ
- 原作/トーマス・ハウザー
- 脚本/コスタ・ガヴラス、ドナルド・スチュワート
- 撮影/リカルド・アロノヴィッチ
- 特殊効果/アルバート・ホイットロック
- 音楽/ヴァンゲリス
- ジャック・レモン
- シシー・スペイセク
- ジョン・シーア
- メラニー・メイロン
- チャールズ・シオッフィ
- デヴィッド・クレノン
- ジョー・レガルブート
- リチャード・ヴェンチャー
- ジャニス・ルール
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