『めぐり逢えたら』(1993年/ノーラ・エフロン)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『めぐり逢えたら』(原題:Sleepless in Seattle/1993年)は、ノーラ・エフロン監督が、トム・ハンクス演じる建築家サムと、メグ・ライアン演じる新聞記者アニーを中心に描いた物語。妻を亡くしたサムはシアトルで一人息子と暮らしており、ラジオ番組をきっかけにその境遇が全米に知られるようになる。一方、ボルティモアに住むアニーは、偶然耳にしたサムの話に強く心を動かされ、彼の住む街や家族の様子を調べ始める。サムの息子ジョナは父に新しい出会いを望み、番組に届いた手紙の中からアニーの存在に関心を抱く。アニーは婚約者との生活に迷いを覚えながらも、サムと向き合うべきかどうかを考え、二人の行動は思わぬ形で交差していく。
90年代ハリウッドの産業構造と、ロマコメ黄金期の幕開け
1990年代のハリウッド映画産業を力強く牽引していたのは、『ターミネーター2』(1991年)、『ジュラシック・パーク』(1993年)、『インデペンデンス・デイ』(1996年)、そして『マトリックス』(1999年)といった、最新のCG技術をこれでもかと詰め込んだSF/アクション超大作の数々だった。
しかし同時に、この10年間は『プリティ・ウーマン』(1990年)をはじめ、『ユー・ガット・メール』(1998年)、『ノッティングヒルの恋人』(1999年)など、極上のロマンティック・コメディが美しく花開いた黄金期でもある。
巨大スタジオにとっても、莫大な製作費と巨額のマーケティング費用を投じるアクション大作に比べ、ロマコメは比較的コンパクトな低予算で製作することが可能。つまり、極めてローリスクでありながら、特大のハイリターンが期待できる、産業的においしいジャンルだったのだ。
この黄金期を象徴する決定的な一本が、ノーラ・エフロン監督の『めぐり逢えたら』(1993年)。約2100万ドルというハリウッド基準では控えめな製作費に対し、全世界で2億ドルを軽々と超える驚異的な興行収入を記録。
同時期のブロックバスター映画が弾き出す数字に比べれば小規模に見えるかもしれないが、投資効率の面では群を抜いており、当時のハリウッドにおけるロマコメ市場の圧倒的な強靭さを端的に物語っている。
「会わない」という極限のサスペンス
『めぐり逢えたら』は、ケイリー・グラントとデボラ・カーが主演を務めた1957年の不朽の名作『めぐり逢い』のオマージュ。二人がエンパイア・ステート・ビルの展望台で再会を約束するあのラストシーンは、映画史に残る名場面として語り継がれている。
監督のノーラ・エフロンは、その古典的な美しさを現代的にアダプテーションしてみせた。しかし、単なるノスタルジックなリメイクにとどまることはない。
深夜のラジオ番組や、シアトルとボルチモアというアメリカ大陸を横断する長距離恋愛のエッセンスを導入することで、90年代の高度情報化社会における、見知らぬ他者との新しい恋愛の形を鮮やかに提示している。
とりわけ注目すべきは、物語構造における「すれ違い」の極限的な延長だ。妻を亡くした主人公のサム(トム・ハンクス)と、ラジオの声を聴いて彼に惹かれるアニー(メグ・ライアン)は、映画の最後の最後まで、直接まともに顔を合わせることがない。
観客は二人の運命的な結びつきを神の視点から知っていながら、広大な物理的距離と不運なタイミングに阻まれる展開を、延々と焦らされ続ける。その極限まで張り詰めた緊張感が、クライマックスでのエンパイア・ステート・ビルでの邂逅において、爆発的なカタルシスを生むのだ。
この「会わない戦略」は、恋愛映画における古典的モチーフを再解釈しつつ、現代的な焦燥感とロマンティシズムを見事に融合させた、エフロンならではの作劇の独自性を示している。
メグ・ライアンの能動性
この時代のロマコメを語る際、メグ・ライアンを避けて通ることは絶対にできない。彼女は、ロブ・ライナー監督の『恋人たちの予感』(1989年)で一躍脚光を浴び、この『めぐり逢えたら』の大ヒットによって、その揺るぎない地位を決定づけた。
あどけなく無垢な笑顔を見せながらも、自立した大人の知性を備え、自らの意思で人生を切り開く行動力をもつ新しいヒロイン像。彼女は「白馬の王子様を受動的に待つだけの女性」ではなく、「自ら飛行機に乗り込み、運命の相手を掴みに行く」能動的な女性として描かれる。その姿は、1980年代以降に社会へと浸透していったフェミニズムの文脈ともシンクロし、多くの女性観客から強烈な共感と支持を呼んだ。
同時に、彼女の演技には常に上質なユーモアと軽やかさが宿っており、物語が過度にシリアスで重い方向へと傾くのを防ぐ。ロマコメに不可欠な「夢と現実の中間点」を巧みに演じ分けるその絶妙なバランス感覚こそが、ライアンを同時代の他の女優たちと明確に差別化する最大の要因なのだ。
ハリウッドにおいて、ジャンルがスターを必要とすると同時に、スター自身がそのジャンルを象徴するようになる。メグ・ライアンと90年代ロマンティック・コメディの蜜月な関係は、まさにスター・システムの最も幸福な典型例といえるだろう。
お伽話を彩るスタンダード・ジャズ
ノーラ・エフロンは、『恋人たちの予感』の緻密な脚本で世界的な注目を集めたのち、この映画でフィルムメーカーとしても鮮烈な足跡を映画史に刻み込んだ。
彼女の作風は、一貫して「恋愛とはファンタジーである」という前提に立ちつつも、単なる甘美な夢物語にとどまらない、都会的なユーモアと鋭い現実感覚を併せ持つ。
ロブ・ライナーが『恋人たちの予感』において、男女の心理的な駆け引きを痛いほどリアルに切り取ってみせたのに対し、エフロンは監督作において、徹底して「お伽話」として恋愛を語ろうとする。
ここには、女性作家ならではのロマンティシズムが色濃く反映されている。恋愛を小難しい理屈で説明するのではなく、観客が夢として信じたい物語を、最も美しいパッケージで提供するのだ。
ジェンダー表象の観点からも、『めぐり逢えたら』は非常に興味深い。男性であるサムは「愛する妻を亡くした」という深い傷を抱え、幼い息子に精神的に支えられながらゆっくりと再生の道を歩む。
一方で女性であるアニーは、「完璧な婚約者がいながらも、ラジオで偶然耳にした見知らぬ男の声に運命を感じてしまう」という、極めて直感的な(ともすれば身勝手な)選択を行う。
こうした役割分担は、従来の性別役割を部分的に転倒させ、男性を「癒やされる側」、女性を「行動する側」として描き出している点で、90年代的な新しいジェンダー観を反映している。
音楽の使い方も最高 of 最高。全編にわたって挿入される、スタンダード・ジャズの名曲たち。ナット・キング・コールやジミー・デュランテの歌声は、観客の無意識下にある古典映画の記憶を呼び覚ます装置として機能している。
この巧みな音楽の引用によって、本作は1950年代のクラシックなメロドラマと、1990年代の現代的なロマコメとを架橋する存在となるのだ。すなわち、エフロンは映画的伝統を軽やかに継承しつつ、それを現代の都市ロマンスとして見事に再生産してみせたのである。
エンパイア・ステート・ビルの冷たい現実
この映画の歴史的な興行的成功は、単に一作品の特大ヒットという事実にとどまらない。ハリウッドのスタジオ群に対して、ロマコメが「女性観客を極めて安定的に動員できる強力なジャンル」であることを実証し、のちの『ユー・ガット・メール』や『ノッティングヒルの恋人』といった90年代後半の傑作群へと至る、太い道筋を切り開いた。
また、メグ・ライアンとトム・ハンクスという組み合わせは、スター・システムにおける「スクリーン上の完璧なカップル神話」を再生産し、観客の期待値を長期的に維持・回収する極めて優秀なマーケティング資源として機能した。
これは同時期におけるジュリア・ロバーツやサンドラ・ブロックが展開したスター戦略とも比較し得る現象であり、ロマコメというジャンルがいかに「スターの魅力」と「ジャンルの約束事」の相互依存によって強固に支えられていたかを示している。
『めぐり逢えたら』は、映画的恋愛の古典を現代に蘇らせると同時に、「恋愛とはファンタジーである」というノーラ・エフロンの確固たる美学を、最高純度で結晶させた作品なのである。
──ちなみに僕は、かつてニューヨークに留学していた時、この映画とまったく同じようにバレンタインデーの夜、エンパイア・ステート・ビルに一人でノコノコと出かけていったことがある。
「ひょっとすると、あのアニーのような運命の人と、衝撃的な出逢いがあるんじゃないか」と淡い期待を胸に展望台へと登ったのだが、そこにいたのは無数の観光客の群れだけであった、というひどくビターなメモリーがある。
ひたすら、夜風が寒かっただけ。現実は、決して映画のように甘くはない。
参考文献・出典
- 監督/ノーラ・エフロン
- 脚本/ノーラ・エフロン、デヴィッド・ウォード、ジェフ・アーチ
- 製作/ゲイリー・フォスター
- 製作総指揮/リンダ・オスト、パトリック・クロウリー
- 撮影/スヴェン・ニクヴィスト
- 音楽/マーク・シャイマン
- めぐり逢えたら(1993年/アメリカ)
- ユー・ガット・メール(1998年/アメリカ)
- 奥様は魔女(2005年/アメリカ)
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