『ルシアンの青春』(1973年/ルイ・マル)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『ルシアンの青春』(原題:Lacombe Lucien/1973年)は、フランス映画界の鬼才ルイ・マル(ルイ・マル)が、第二次世界大戦中のナチス占領下を舞台に、成り行きでドイツ警察(ゲシュタポ)の手先となった17歳の少年の軌跡を描いた衝撃作。ノーベル文学賞作家パトリック・モディアノ(パトリック・モディアノ)との共同脚本により、レジスタンス神話に隠された「無自覚な加担」のリアリズムを冷徹に暴き出す。素人俳優ピエール・ブレーズ(ピエール・ブレーズ)が放つ圧倒的な虚無感と、ジャンゴ・ラインハルト(ジャンゴ・ラインハルト)のスウィングが彩る頽廃的な美学が、観る者の倫理観を激しく揺さぶる。
- 第49回キネマ旬報(外国映画):第7位
悪の凡庸さとスウィングする狂気
ジャンゴ・ラインハルトによる陽気なジプシー・スウィングが軽快に響き渡る中、フランス農村の田舎道をルシアン少年が自転車で駆け抜けていく。
このオープニングのポップな肌触りは、ノスタルジックな甘酸っぱい青春譚を思わせる。だがそんな甘っちょろい期待は、開始数十分で無残に打ち砕かれることになる。
物語の舞台は、ナチス・ドイツ占領下の1944年。戦争のドス黒い影が、無知で素朴な17歳の少年の運命を、容赦なく、そして極めてコントのように滑稽に歪めていくのだ。
『ルシアンの青春』(1974年)の主人公ルシアンは、小鳥をパチンコで撃ち殺す残酷さと、子供のような無邪気さを併せ持った、野性的な少年だ。
彼の父親はドイツ軍の捕虜となり、母親は雇い主とよろしくやっている。家庭という居場所を持たない彼は最初、「かっこいいから」「銃が撃ちたいから」という、まるでサバゲーにでも参加するような驚くほど幼稚な理由でレジスタンスに入ろうとするが、「ガキは帰れ」と鼻であしらわれてしまう。
するとあろうことか、偶然迷い込んだ館でドイツ警察(実態はナチスに協力するフランス人民兵団やゲシュタポの手先)の連中と酒盛りをして意気投合し、あっさり彼らの手先としてスカウトされる道を選ぶのだ。
カフェのバイトの面接に落ちた腹いせに、まかないのビールにつられて悪の秘密結社に入社してしまうようなこの恐るべき選択に、政治的なイデオロギーは一切存在しない。ファシズムへの傾倒もなければ、祖国への反逆心すらなく、ただ自身の空虚さを埋めるための「若気の至り」の極致でしかない。
彼はただ、タダで酒が飲めて、大人の男たちからチヤホヤされ、権力が振りかざせて、仕立ての良いスーツと小切手、そして何より本物の銃を与えてくれる、享楽的な頽廃に惹かれたにすぎないのだ。
ここに描かれているのは、哲学者ハンナ・アーレントが説いた「悪の凡庸さ」の、極めてタチの悪い思春期こじらせ版。巨大な悪は狂信者によってではなく、深く考えることを放棄した凡人によって遂行される。
無知な少年が、ただ強者への憧れと承認欲求を満たすためだけに暴力を手にしたとき、人間はここまであっけなく悪魔のシステムにホイホイと組み込まれてしまうのか。自己正当化すら必要としないその無自覚な転落の事実は、いかなるホラー映画よりも生々しく、そして呆れるほど恐ろしい。
支配と依存が交錯する、底知れぬ沈黙のロマンス
物語は、ルシアンが身分を隠して潜伏しているユダヤ人の娘フランス(オーロール・クレマン)に一目惚れしてしまうことで、その悲劇性(と、胃の痛くなるような気まずさ)を一気に加速させる。
彼はゲシュタポの手先という絶対的な権力を盾にして、彼女とその父親であるパリの高級仕立て屋アルベール・オルンの生活に、土足でズカズカと踏み込んでいく。
このロマンスの構造は、控えめに言ってもグロテスクの極致だ。ルシアンは彼女を純粋に愛しているつもりだが、彼女の家族の生殺与奪の権は、完全にルシアンの所属する組織が握っている。
フランスにとってルシアンは、自分たちを守ってくれる唯一の庇護者であると同時に、機嫌を損ねればいつでも自分たちを強制収容所へ送れる絶対的な死神なのだ。娘が連れてきた彼氏が、自分たちの命を握るゲシュタポのパシリだなんて、相手の親からすれば地獄のような「ご両親へのご挨拶」である。
ルイ・マル監督と、のちにノーベル文学賞を受賞する共同脚本のパトリック・モディアノは、この支配と依存が複雑に絡み合った狂気の心理戦を、野暮な説明台詞には一切託さない。
それを何よりも雄弁に物語るのは、執拗に繰り返されるルシアンの顔のクローズアップだ。ルシアンを演じたピエール・ブレーズは、演技経験などまったくない本物の木こりの青年だった。
彼の動物的で虚無的な瞳の沈黙こそが、この映画の真のスペクタクル。娘を権力で奪われ、金銭を巻き上げられながらも、元来のブルジョワとしての矜持と絶望の間で引き裂かれていく父親アルベールの静かなる崩壊も、痛烈なコントラストを生み出している。
終盤、ドイツ軍の敗色が濃厚になる中、ルシアンはフランスとその祖母を連れて国境近くの空き家へと逃亡し、奇妙で一時的な安寧を得る。大自然の中ではイデオロギーも戦争も無化され、ただオスとメスのような剥き出しの存在へと回帰していく。
そこでは無垢な愛情表現と、フランスが見せる冷酷な殺意の眼差しが激しく交錯する。映像と音響の双方が、この「絶対に成立してはいけない疑似家族」の居心地の悪さを限界まで増幅させていくのだ。
英雄神話を解体した、ルイ・マルの歴史的テロリズム
そして迎える唐突すぎる幕切れ。「ルシアンはレジスタンスに捕らえられ、死刑に処された」という冷徹なテロップのみによって、彼の青春は強制終了させられる。
17歳の少年の不安定な揺らぎが、歴史の巨大な暴力によって残酷な結末へと乱暴に固定化されてしまうのだ。そこに感動的なカタルシスなど1ミリも用意されていない。
『ルシアンの青春』は公開当時、フランス国内で右派からも左派からも猛烈なバッシングの嵐を巻き起こした。なぜなら当時のフランス社会には、いわゆるレジスタンシアリスムと呼ばれる美しい英雄神話が蔓延し、国全体が自己陶酔していたからだ。ルイ・マル監督は、その欺瞞に満ちた感動のフィクションに対し、空気を全く読まない悪意に満ちた爆弾を仕掛けたのである。
マルセル・オフュルス監督のドキュメンタリー『悲しみと哀れみ』(1969年)が先んじてこのタブーに触れてはいたが、国民的規模のエンタメ映画としてナチス協力者の日常を突きつけたマルの功績、そしてそれが引き起こしたアレルギー反応は計り知れない。結果としてマルは、この大炎上に心底ウンザリし、アメリカへと渡ることになる。
ジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーといったヌーヴェルヴァーグの旗手たちが、政治性と個人の実存を軽やかに、あるいはスタイリッシュに表現したのに対し、一匹狼だったマルは無知な少年を通じて、歴史の灰色で泥臭い暴力を容赦なくスクリーンに引きずり出した。
善と悪の境界線を曖昧にし、観客に究極の居心地の悪さを突きつける本作は、戦争映画というジャンルのモラルすらも解体してしまった大傑作なのである。
P.S.
この得体の知れないリアリティを体現した主演のピエール・ブレーズは、本作の成功からわずか1年後の1975年、交通事故により20歳の若さでこの世を去った。彼が映画史に残した、あの永遠に謎めいた「なにも考えていない」眼差しに、深い追悼を捧げたい。
参考文献・出典
- 死刑台のエレベーター(1957年/フランス)
- 鬼火(1963年/フランス)
- ルシアンの青春(1973年/フランス、イタリア、西ドイツ)
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