大阪を第二のサイバーパンク・シティに仕立て上げた刑事アクション
リドリー・スコットが一貫して実践している作品のテーマが、「異人種との遭遇」である。そして『ブラック・レイン』(1989年)での異人種とは、我々日本人に他ならない。
「向う側から見た日本人」は、何だか奇異で摩訶不思議な民族である。「こんなの、日本人じゃねえよ」とツッコミをいれてみたところで、それは何の意味ももたない。
リドリー・スコットの関心は日本人を描くことではなく、『ブレードランナー』(1982年)の舞台だった近未来のロスアンゼルスを、大阪に移し替えることだからだ。かくしてOSAKAは、第二のサイバーパンク・シティに生まれ変わった。
この映画において、我々日本人たちはステレオタイプに均一化され、「個人」を持つことすら許されない。大阪府警の連中は皆うどんをすすっているし、工場に出社する工員は皆自転車で出勤している(中国か!?)。
しかしリドリー・スコットは、きまりきったエコノミック・アニマルを描きたかった訳ではないだろう。彼等もまた、『ブレードランナー』の「強力わかもと」の看板と同じく、単なる風景の一部にしか過ぎないのだ。
松田優作演じるサトウすら、『ブレードランナー』におけるレプリカントのような存在ではない。松田優作の鬼気迫る演技への評価は別として、彼は「ジャパニーズ・マフィア」というステレオタイプな役柄しか与えられていない。
リドリー・スコットは彼に何のアイデンティティーを持たせなかったし、ルトガー・ハウアーの「全ての思いでは消えていく…涙のように…」といったようなセリフも与えなかった。その個性は大阪の街のネオンや雑踏のように埋没してしまっている。
日本人が発する気の利いたセリフを強いてあげるとすれば、ヤクザの大親分(若山富三郎)が語る「黒い雨」の記憶ぐらいか。
だがこれも、アメリカ人との価値観の相違という問題を浮き彫りにするだけで、最後まで日本人は日本人としてのアイデンティティーを提示できずじまい。オマケに若山富三郎の英語のセリフはすべて吹き替え。チープなエフェクト処理には参った。
日本という装置が、単なるオリエンタリズム趣味でしか機能しなかったことが、この映画の最大の弱点である。高倉健がマイケル・ダグラスにワイロを受け取ったことを諭すシーンにしても、特に日本人論を展開している訳ではない。
哲学とビジュアルが奇跡的に融合した『ブレードランナー』で、リドリー・スコットは全てを語りつくしてしまったのかもしれない。
- 原題/Black Rain
- 製作年/1989年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/125分
- 監督/リドリー・スコット
- 製作/スタンリー・R・ジャッフェ、シェリー・ランシング
- 製作総指揮/クレイグ・ボロティン、ジュリー・カーカム
- 脚本/クレイグ・ボロティン、ウォーレン・ルイス
- 撮影/ヤン・デ・ボン
- 音楽/ハンス・ジマー
- 美術/ノリス・スペンサー
- 編集/トム・ロルフ
- マイケル・ダグラス
- 高倉健
- 松田優作
- アンディ・ガルシア
- ケイト・キャプショー
- ジョン・スペンサー
- 神山繁
- ガッツ石松
- 安岡力也
- 小野みゆき
- 内田裕也
- 若山富三郎
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