『ブラック・レイン』(1989年/リドリー・スコット)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『ブラック・レイン』(1989年)は、アメリカ人刑事が大阪で起きたヤクザ抗争事件を追う刑事アクションである。逃亡犯を護送中に取り逃がした刑事ニックとチャーリーは、異国の警察制度と文化の違いに翻弄されながら事件の真相を追う。やがて日米の捜査官が衝突と協力を繰り返し、暴力の連鎖が頂点に達する中で、ニックは「他者」としての日本と自らの正義の狭間に立たされる。
バーホーベンの離脱と、スコットが仕掛けた絶対的他者との遭遇
日米のトップスターが激突する刑事アクション大作、『ブラック・レイン』(1989年)。実はこの映画、当初はポール・バーホーベン監督がメガホンをとる予定だった。
しかし彼は、アーノルド・シュワルツェネッガー主演の『トータル・リコール』(1990年)の企画に強烈な関心を示し、あっさりとこのプロジェクトから離脱してしまう。
そこでプロデューサーのスタンリー・R・ジャッフェとシェリー・ランシングは、当時『ブレードランナー』(1982年)、『レジェンド/光と闇の伝説』(1985年)、『誰かに見られてる』(1987年)と、興行的失敗を繰り返して窮地に立たされていたリドリー・スコットに白羽の矢を立てる。スコットにとって本作は、ハリウッドでの商業的成功の回復を図る、背水の陣の挑戦でもあった。
リドリー・スコットの映画に一貫して流れる太いテーマ、それは「絶対的他者との遭遇」というテーマだ。この他者は単なる異民族や異星人を指すにとどまらず、未知の存在、異形、さらにはジェンダーや巨大な権力構造の異質性までを包含している。
たとえば彼の出世作『エイリアン』(1979年)のゼノモーフは、人間とは全く異なる圧倒的な身体性と生存本能を有する存在として登場し、観客に根源的な恐怖と自己認識の危機をもたらした。
同様に『ブレードランナー』のレプリカントは、外見は人間に極めて類似していながらも、倫理的・感情的に異なる作られた存在として、「人間とは何か?」という哲学的な問いを鋭く突きつけた。
この構図は、彼のキャリア全体に拡張できる。『テルマ&ルイーズ』(1991年)における他者とは、男性中心の権力構造によって抑圧される主体としての女性(ジェンダー)であり、彼女たちの逸脱を通して社会秩序の限界を可視化してみせた。
歴史大作『1492 コロンブス』(1992年)では、新大陸のネイティブアメリカンが持つ未知の倫理観が他者となり、『グラディエーター』(2000年)では、マキシマス個人の正義の前に立ちはだかる「ローマ帝国という制度化された権力」そのものが他者として機能した。
さらに『ブラックホーク・ダウン』(2001年)では、予測不能なソマリアの武装勢力と混沌とした市街戦という異環境が、他者として米軍兵士の倫理と判断力を極限まで試す。
スコットの手法は常に、この物理的・文化的・権力的・哲学的異質性との激しい衝突を通じて、登場人物(そして観客)の自己認識と価値判断を照射し、「自分とは一体何者なのか」という問いを突きつけるのだ。
記号化されたサイバーパンクOSAKA
では、『ブラック・レイン』における絶対的他者とは誰か?それは他でもない、我々日本人である。この映画は、アメリカ人刑事(マイケル・ダグラス)の視点から見た、日本人という謎に満ちたエイリアン(異邦人)を、猥雑な都市空間と絡めて徹底的に可視化していく。
作中の日本人像は、奇異で摩訶不思議な住人だ。こんなの日本人じゃねえよ!と思わず画面にツッコミたくなるような、誇張された描写も山ほどある。
だが、リドリー・スコットはそもそも、日本人個人のリアルなアイデンティティや日常生活の微細なニュアンスになど、1ミリも関心を抱いていない。
彼の並々ならぬ関心はただ一点、『ブレードランナー』で構築した近未来のロサンゼルスを、大阪という都市に置き換え、サイバーパンク的都市景観として現実世界に再構築することのみ。かくして大阪は、スコットの美学によって第二のサイバーパンク・シティOSAKAとして生まれ変わった。
本作に登場する日本人は、極めてステレオタイプに均一化され、個人としての存在感をほとんど持たない。大阪府警の警官たちはズラリと並んでうどんをすすり、製鉄所の工場労働者たちは皆一斉に自転車で出勤する。まるで高度経済成長期の「エコノミック・アニマル」を映像的記号として配置したかのようだ。
だが、スコットの執着は個々の人物ではなく、あくまで都市という記号の集合体としての大阪にある。煌びやかなネオン、煙を吐く産業設備、そして雑踏と同様に、日本人キャラクターはただの映像の風景に溶け込み、都市のサイバーパンク的記号の一部として機能させられているのだ。
松田優作の狂気と、映像美至上主義がもたらした虚無
この記号化の波は、悪役サトウを演じた松田優作にさえ及んでいる。癌に冒されながら命を削って演じ切った彼の鬼気迫る狂気の演技は、間違いなく映画史に残るものであり、ハリウッドの度肝を抜いた。
だがスコットの演出において、サトウは『ブレードランナー』のロイ・バッティ(ルトガー・ハウアー)のように、独自の哲学やアイデンティティを持った存在としては描かれない。彼に与えられたのは、残忍で野心的なジャパニーズ・ヤクザという、ステレオタイプな役割のみなのだ。
スコットは、彼に個人的な内面の葛藤を語らせない。ロイ・バッティが最後に語った「雨の中の涙」のような、観客の魂を震わせる象徴的なセリフも与えられず、その強烈な個性でさえ、スコットの作り上げた巨大な都市景観のビジュアルの中に飲み込まれてしまう
日本人キャラクターが発する意味のあるセリフといえば、ヤクザの大親分・菅井(若山富三郎)がアメリカの価値観を批判する黒い雨(ブラック・レイン)の記憶くらいだが、これも日米の法観念の相違を説明するにとどまっている。
結局のところ、本作における大阪という舞台装置は、極上のオリエンタリズム的装飾でしかない。夜の道頓堀を照らすネオン、狭隘な路地、雨に濡れた舗道の反射。
スコットは大阪の物理的なリアリティよりも、その視覚的インパクトに全振りしている。アメリカ人刑事たちは、謎めいて危険で魅惑的なこの異界の構造や商習慣に翻弄され、観客はその異文化遭遇体験を疑似的に楽しむのだ。
『ブラック・レイン』は、サイバーパンク的視覚文化の再構築としては、息を呑むほど完璧に成功している。だが、哲学的深みとビジュアルが奇跡的な次元で融合し、すべてを語り尽くした『ブレードランナー』と比較してしまうと、どうしても映像美至上主義の果ての虚無を感じずにはいられない。
スコットは都市と他者を完璧に記号化することで極限の映像美を追求したが、そこに個人の主体性や深い哲学的内面を埋め込むことはしなかった。
しかし、その歪さこそが、ハリウッド産トンデモ・ジャパン映画として、今なお我々を強烈に惹きつけてやまないのだ。
- 監督/リドリー・スコット
- 脚本/クレイグ・ボロティン、ウォーレン・ルイス
- 製作/スタンリー・R・ジャッフェ、シェリー・ランシング
- 製作総指揮/クレイグ・ボロティン、ジュリー・カーカム
- 撮影/ヤン・デ・ボン
- 音楽/ハンス・ジマー
- 編集/トム・ロルフ
- 美術/ノリス・スペンサー
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