クリント・イーストウッドがジョン・ヒューストンを通じて描く、男根主義的マッチョイズムの崩壊
『マルタの鷹』(1941年)、『黄金』(1948年)、『キー・ラーゴ』(1948年)、『白鯨』(1956年)などで知られる映画監督ジョン・ヒューストンは、豪放磊落なワイルド系であった。
5回に渡って結婚と離婚を繰り返したり、借金を抱えていながら賭博に精を出したり、エロール・フリンと骨を折るほどの殴り合いをしたり(ヒューストンは元ボクサーなのだ!)。ホンマかいなと首をかしげるほど、豪快エピソードのオンパレードである。
そんな彼の代表作のひとつが、1951年に発表された米英合作映画『アフリカの女王』(1951年)。ハンフリー・ボガート、キャサリン・ヘップバーンを主演に迎えた大作だ。
しかし、アフリカでのロケは天候不順で困難を極め、おまけにヒューストンが撮影そっちのけで象狩りに夢中になってしまい、現場はエライ状況だったらしい。
そんな地獄ロケに同伴していた脚本家ピーター・ヴィアテルが、当時の様子をノベライズしたのが『ホワイトハンター ブラックハート』で、ヒューストンのファンを公言しているクリント・イーストウッドがソレを映画化したのが本作である。
イーストウッド演じるジョン・ウィルソン(名前がいじられているが、モデルはヒューストンです)は、人の意見にはいっさい耳を傾けない独裁者であり、本能の赴くままに行動する快楽主義者。
それでいて、人種差別を嫌う正義感の強いヒューマニストであるという、エクストリームな人格破壊者。周囲の人間は、彼の無軌道かつ自分勝手な振る舞いに振り回されっぱなしである。
良識ある人格者のピート・ヴェリル(ジェフ・フェイヒー)に、「象を殺すのは罪じゃないのか?」と問われると、「象を殺すのは犯罪じゃない。それは罪悪なんだ。俺は何を犠牲にしても、この罪悪を犯したいと思う。分かるか?分からんだろうな。俺にも分からんのだから」と放埒コメントをカマす。真の芸術の創造のためなら、モラルなどアウト・オブ・眼中なのだ!
だが物語は、ジョン・ウィルソンを神格化させるどころか、最後の最後で彼を玉座から引きずりおろすという、サプライズな展開をみせる。
有り余るほどの征服欲を満たすために、彼は撮影を遅延させては象狩りに出かけるのだが、どうしてもライフルの引き金を引くことができない。それどころか彼の身を守ろうとして、現地ガイドが犠牲になるという最悪の結果を迎えてしまうのだ。
現実世界で“王になろうとした男”は、その称号を得ることなく“独裁欲の強い初老の映画監督”に失墜し、映画という虚構世界で弱々しく「アクション」とつぶやくのみ。『ホワイトハンター ブラックハート』は、タフガイが大自然を前にして脆くも自己崩壊してしまう物語だ。
現在のハリウッドで最強タフガイを欲しいままにするクリント・イーストウッドが、かつてのタフガイであるジョン・ヒューストンを演じるという構造からして、男根主義的マッチョイズムの崩壊は生々しいリアリティをもつ。
イーストウッドがヒューストンにシンパシーを感じたのは、ひょっとして“王になろうとした男”としてではなく、“王になりきれなかった男”としての悲哀だったのかもしれない。それはイーストウッド映画の骨子でもある、「負け犬の物語」に通底する。
- 原題/White Hunter Black Heart
- 製作年/1990年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/110分
- 監督/クリント・イーストウッド
- 製作/クリント・イーストウッド
- 製作総指揮/デヴィッド・バルデス
- 原作/ピーター・ヴィアテル
- 脚本/ジェームズ・ブリッジス、バート・ケネディ、ピーター・ヴィアテル
- 撮影/ジャック・N・グリーン
- 音楽/レニー・ニーハウス
- クリント・イーストウッド
- ジェフ・フェイヒー
- ジョージ・ズンザ
- アルン・アームストロング
- マリサ・ベレンソン
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