2018/1/29

『ロイ・ビーン』(1972)ジョン・ヒューストンが描く、王になれなかった男の肖像

『ロイ・ビーン』(1972)
映画考察・解説・レビュー

6 OKAY

『ロイ・ビーン』(原題:The Life and Times of Judge Roy Bean/1972年)は、無法がはびこるテキサスの町に現れた男が、自らを判事と名乗り正義を掲げる異色の西部劇。拳銃と法を手に荒くれ者を裁き、町を統治していくロイ・ビーン(ポール・ニューマン)は、やがて時代の流れに取り残され、孤独と衰退の運命へと向かっていく。荒野に築かれた小さな王国の興亡を通して、権力と理想の儚さが描かれる。

神話化されなかった巨匠

ジョン・ヒューストンのキャリアは、アメリカ映画史においてきわめて奇妙な位置を占めている。

『キー・ラーゴ』(1948年)、『アフリカの女王』(1951年)、『白鯨』(1956年)といった大ヒット作を立て続けに生み出し、興行的にも評価的にも確固とした成果を残しながら、ジョン・フォード、ハワード・ホークス、アルフレッド・ヒッチコック、ビリー・ワイルダーといった“映画史の中心に君臨するレジェンド”と同列に語られることは驚くほど少なかった。

存在感は間違いなくあるのに、神話としての輪郭が曖昧なまま遠景へ退いていく。それがヒューストンというフィルムメーカーの宿命だった。批評史を振り返っても、彼の評価には一定の距離がつきまとう。

蓮見重彦が武満徹との対談で語った「かわいい、面白いことをするけど、才能なし」という冷徹な一刀両断は、彼の位置づけを象徴している。

技巧と豪胆さはあるが、映画そのものの更新へ突き抜ける“必然の構造”がどこか欠けている。そんな微妙な印象が批評家の間で共有されてきた。

だが、ヒューストン自身は誰よりも映画を信じ、映画に殉じ、映画に愛されたいと願っていた。豪放磊落なパーソナリティで知られる彼が、内面では自らの限界と格闘し、アメリカン・ニューシネマ以降の潮流に適応できず、もがき続けていたことは容易に想像できる。

そんな“未完の作家”が、自身の影を最も色濃く落とした作品こそが『ロイ・ビーン』(1972年)だ。

ロイ・ビーンという自己像の投影

『ロイ・ビーン』は、ヒューストンが自らの半生をメタフィクショナルに反射させた作品として読むと、その本質がくっきりと立ち上がる。

脚本にジョン・ミリアス、音楽にモーリス・ジャール、衣装にイーディス・ヘッドという豪華布陣が揃い、当時のハリウッドが誇る職人たちが結集。しかし、その“職人芸の豪華パッケージ”は同時に、ヒューストン自身が古い映画作りの文法に依存し続けていた証でもある。

時代の速度に追いつけず、それでも王座に居座ろうとする男の寓話。それがこの映画の骨格だ。物語中心に立つロイ・ビーン(ポール・ニューマン)は、無法の町に突如現れ、荒くれ者を撃退し、勝手に判事を名乗って居座り、独自の“正義”で町を支配する。

強引で粗暴で短気だが、どこか憎めず、町の人々に慕われもする。だが、朝から晩まで賭けポーカーに興じ、気分で法をねじ曲げ、私腹を肥やす彼の在り方は、急速に近代化していく西部という時代と噛み合わなくなっていき、やがて居場所を失っていく。

すなわち、いかに魅力とカリスマを備えていても、“世界の変化”がそれを許さなくなる瞬間がある。ロイ・ビーンが辿るこの曲線は、ヒューストン自身が歩んだ道の縮図だ。

古き良きスタジオ時代の語法を背負い、なおも王になろうとするが、アメリカン・ニューシネマの新しい辛辣な光が、彼を過去へ押しやってしまう。だからこそ、本作には奇妙な自己暴露の匂いが漂う。

しかもヒューストンは自ら“熊のアダムズ”として出演する。シャベルを振り回し、「暖かい場所で死にたい」と叫びながら土を掘り続ける山男。

その動きは、映画の外側にある彼自身の伝説的エピソード──パーティでもらったチンパンジーをそのまま連れ帰ったという荒唐無稽なバイタリティ──と地続きだが、同時に「死へ向かう身体」としてスクリーンに刻印されている点で、異様な重みを持つ。

ここでは監督ヒューストンが、役者ヒューストンの肉体を通じて“自分という映画作家の終焉”を演じている。『ロイ・ビーン』がアメリカン・ニューシネマの影響を受けたタッチで、過去の英雄像を解体していく作品であることを考えれば、これはあまりに象徴的なシーンだ。

“映画の神”に選ばれなかった男

本作でもっとも象徴的なのは、ロイ・ビーンが生涯にわたって崇拝する大女優リリー・ラングトリー(エヴァ・ガードナー)に、ついに一度も会うことができない点だ。

遠い場所に存在し、憧憬を与え、表象としての“活力”を与え続ける存在。ロイにとってのリリーは、ヒューストンにとっての“映画そのもの”だ。

ロイが憧れ続けた女神は、彼の死後になってようやく町に姿を現す。これはつまり、ヒューストンが心の奥底で抱いていた願望──「いま評価されなくてもいい、死後でかまわない、いつか自作が正当に見直されてほしい」──の寓話的造形だと言える。

映画という神話装置は、誰を救済し、誰を選ばないのか。その基準は残酷なまでに不可視で、作り手の努力とは無関係に立ち上がる。本作は、ヒューストンがその残酷さをもっとも深く理解していたことの証拠でもある。そしてロイ・ビーンの物語は、英雄的誇張ではなく、むしろ“時代に取り残された男”の孤独の方角へと収束していく。

王になろうとし、神に近づこうとした男が、結局は神に選ばれなかったという事実。そのラストは、ヒューストン自身が自らに突きつけた映画監督としての宿命の宣告に他ならない。本作は西部劇の形式を借りながら、その内側で“作家としての死”を繊細かつ辛辣に描く。

一見豪胆なユーモアと逸話に満ちた人物像の裏側に潜んでいた脆さ、焦燥、怒り、そして諦念。それらがロイ・ビーンの軌跡としてスクリーンに翻訳されている。

だからこそ『ロイ・ビーン』は、ヒューストンのフィルモグラフィの中で異様なまでの自己言及性を持つ。ここには“未完の作家”が自らの未完性を見つめ、ようやく言葉にした形跡がある。

真の傑作に届かなかった男が、なぜ映画を愛し続け、なぜ映画に選ばれなかったのか。その答えは、この作品のすべてのフレームの中に沈殿している。

FILMOGRAPHY