『ロイ・ビーン』(1972年/ジョン・ヒューストン)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『ロイ・ビーン』(原題:The Life and Times of Judge Roy Bean/1972年)は、無法がはびこるテキサスの町に現れた男が、自らを判事と名乗り正義を掲げる異色の西部劇。拳銃と法を手に荒くれ者を裁き、町を統治していくロイ・ビーン(ポール・ニューマン)は、やがて時代の流れに取り残され、孤独と衰退の運命へと向かっていく。荒野に築かれた小さな王国の興亡を通して、権力と理想の儚さが描かれる。
神話化されなかった巨匠の奇妙な立ち位置
ジョン・ヒューストンという監督のキャリアを眺めていると、アメリカ映画史において彼がきわめて奇妙な位置を占めていることに気づく。
初期から中期にかけての彼は、間違いなくハリウッドの中心にいた。『キー・ラーゴ』(1948年)、『アフリカの女王』(1951年)、『白鯨』(1956年)といった大ヒット作を立て続けに世に送り出し、興行的にも批評的にも確固たる成果を残している。
それなのに、ジョン・フォードやハワード・ホークス、あるいはアルフレッド・ヒッチコックやビリー・ワイルダーといった「映画史の中心に君臨するレジェンドたち」と同列に語られることは、驚くほど少ない。
作品の存在感は間違いなくあるのに、作家としての神話的な輪郭がどこか曖昧なまま、遠景へと退いていく。それがヒューストンというフィルムメーカーが背負った奇妙な宿命だ。
批評史を振り返ってみても、彼の評価には常に一定の距離感がつきまとっている。かつて蓮實重彦が武満徹との対談のなかでポロリとこぼした「かわいい、面白いことをするけど、才能なし」という冷徹な一刀両断は、まさにヒューストンに向けられた批評界の空気を象徴している。
彼には確かな映像技巧と、豪胆なストーリーテリングの力がある。だが、映画そのものの歴史を更新し、未知の領域へ突き抜けていくような、必然の構造がどこか欠けている。そんな微妙な印象が、長年にわたって批評家たちの間で共有されてきたのだ。
だが、ヒューストン自身は誰よりも映画というメディアを信じ、映画に殉じ、そして映画の神様に愛されたいと切実に願っていたはず。豪放磊落なパーソナリティや破天荒なエピソードばかりが語られる彼だが、内面では常に自らの限界と格闘し、アメリカン・ニューシネマ以降の新しい潮流に適応できずにもがき続けていたことは容易に想像がつく。
そんな永遠の未完の作家像が、自身の影をこれまでになく色濃く、そして自嘲気味に落とした作品こそが、『ロイ・ビーン』(1972年)という風変わりな西部劇だ。
豪華パッケージの裏側に潜む時代のズレ
『ロイ・ビーン』の制作背景を掘り下げていくと、当時のハリウッドにおける新旧の価値観の衝突がくっきりと浮かび上がってくる。
本作の脚本を手掛けたのは、後に『地獄の黙示録』(1979年)などを執筆し、右派的なマッチョイズムで名を馳せることになる若き日のジョン・ミリアスだ。
さらに音楽にはモーリス・ジャール、衣装にはアカデミー賞の常連である巨匠イーディス・ヘッドという豪華布陣が揃えられ、当時のハリウッドが誇る最高峰の職人たちが結集。製作費は約400万ドルの中規模バジェットながら、興行収入は約1600万ドルを記録し、ビジネスとしては手堅い成功を収めた。
しかし、この職人芸の豪華パッケージは、同時にヒューストン自身が古い映画作りの文法に無自覚に依存し続けていたことの証でもある。
時代の速度にどうしても追いつけず、それでも王座に居座ろうとする男の滑稽な寓話。それがこの映画の隠された骨格だ。ポール・ニューマンが演じる主人公のロイ・ビーンは、テキサスの無法の町に突突として現れ、荒くれ者たちをあっさりと撃退し、勝手に判事を名乗って居座り、独自の無茶苦茶な正義で町を支配していく。
彼は強引で粗暴で短気だが、どこか憎めない愛嬌があり、町の人々にも慕われるようになる。だが、朝から晩まで賭けポーカーに興じ、その日の気分で法律をねじ曲げ、平然と私腹を肥やす彼の古い在り方は、急速に近代化と法治化が進んでいく西部という時代と少しずつ噛み合わなくなっていく。やがて、彼自身の居場所は世界のどこにもなくなってしまうのだ。
いかに個人の魅力とカリスマを備えていようとも、冷酷な世界の変化がそれを許さなくなる瞬間が必ず訪れる。ロイ・ビーンが辿るこの哀愁に満ちた没落の曲線は、そのままヒューストン自身がハリウッドで歩んだ道の縮図として重なって見える。
ロイ・ビーンという自己像の強烈な投影
古き良きスタジオシステムの語法を背負い、なおも現場の王になろうとするが、アメリカン・ニューシネマがもたらした新しい辛辣な光が、彼を過去の遺物へと押しやってしまう。だからこそ本作には、画面の端々から奇妙な自己暴露の匂いが強烈に漂ってくる。
批評サイトのRotten Tomatoesでも批評家支持率は70%台と、決して手放しの絶賛を受けたわけではない。ニューシネマの文脈で見れば古臭く、伝統的な西部劇として見ればあまりにシニカルすぎるという、どっちつかずの評価が下されたのだ。
しかもこの作品でヒューストンは、自ら「熊のアダムズ」という強烈な役柄でカメオ出演を果たしている。シャベルを振り回し、「暖かい場所で死にたい」と叫びながら土を掘り続ける薄汚れた山男。
そのコミカルで泥臭い動きは、映画の外側にある彼自身の伝説的エピソード、たとえばパーティでもらったチンパンジーをそのまま連れ帰ったという荒唐無稽なバイタリティと地続きだ。しかし同時に、それは「死へ向かっていく衰弱した身体」としてスクリーンに深く刻印されている点で、異様なまでの重みを持っている。
ここでは監督ヒューストンが、役者ヒューストンの老いた肉体を通じて「自分という映画作家の終焉」を自ら演じてみせている。『ロイ・ビーン』が、若きミリアスの脚本を通じて過去の英雄像を容赦なく解体していく作品であることを考えれば、この熊のアダムズの姿はあまりに象徴的で胸に迫るものがある。
自らの手で自らの墓穴を掘るようなその姿に、ヒューストンは確信犯的に自分の監督人生のメタファーを重ね合わせていたに違いない。
“映画の神”に選ばれなかった男の諦念
本作の構造のなかでもっとも象徴的で残酷なのは、ロイ・ビーンが生涯にわたって熱狂的に崇拝し続ける大女優リリー・ラングトリー(エヴァ・ガードナー)に、彼がついに生きている間は一度も会うことができないという点だ。
ポスターのなかにだけ存在し、遠い場所から憧憬を与え、彼の生きる活力であり続ける絶対的な存在。ロイにとってのリリーは、そのままヒューストンにとっての映画という芸術そのものの暗喩として機能している。
ロイが憧れ続けた女神は、なんと彼が死んだずっと後になって、ようやく近代化された町に姿を現す。これはつまり、ヒューストンが心の奥底でひっそりと抱いていた悲しい願望、「いまこの時代に正当に評価されなくてもいい、自分が死んだ後でかまわないから、いつか自作が正当に見直されてほしい」という想いの寓話的な造形だと言える。
映画という巨大な神話装置は、一体誰を救済し、誰を選ばないのか。その基準は残酷なまでに不可視であり、作り手の血のにじむような努力や熱量とはまったく無関係に立ち上がる。本作は、ヒューストンがそのシステムの残酷さをもっとも深く、骨の髄まで理解していたことの明確な証拠だ。
ロイ・ビーンの物語は、古き良き西部劇のような英雄的な誇張へは向かわず、むしろ時代に取り残された男の静かな孤独の方角へと収束していく。
王になろうとし、神に近づこうとした男が、結局は映画の神様に選ばれなかったという冷厳な事実。そのラストシーンは、ヒューストン自身が自らの胸に突きつけた、映画監督としての宿命の宣告だ。
本作は西部劇というエンターテインメントの形式を借りながら、その内側で「作家としての死」をこれ以上ないほど繊細かつ辛辣に描き出している。
一見すると豪胆なユーモアと愉快な逸話に満ちた人物像。しかしその裏側にべったりと張り付いていた脆さ、焦燥感、時代への怒り、そして深い諦念。それらすべてが、ロイ・ビーンの歩む軌跡としてスクリーンに見事に翻訳されている。
だからこそ『ロイ・ビーン』は、ヒューストンのフィルモグラフィの中でも異様なまでの自己言及性を持つ重要作なのだ。ここには「未完の作家」が自らの未完性を真っ向から見つめ、ようやく映像という言葉にした生々しい形跡がある。
真の傑作に届かなかった男が、なぜそれでも映画を愛し続け、そしてなぜ映画に選ばれなかったのか。その答えは、この作品のすべてのフレームの底に、静かに、だが確実に沈殿している。
参考文献・出典
- 監督/ジョン・ヒューストン
- 脚本/ジョン・ミリアス
- 製作/ジョン・フォアマン
- 撮影/リチャード・ムーア
- 音楽/モーリス・ジャール
- 編集/ヒュー・S・フォウラー
- 美術/タンビ・ラーセン
- 衣装/イーディス・ヘッド
- ロイ・ビーン(1972年/アメリカ)
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