2026/2/5

『ブラック・ダリア』(2006)徹底解説|ファム・ファタールが欠落した暗黒ノワール

『ブラック・ダリア』(2006年/ブライアン・デ・パルマ)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー

10段階評価
6 OKAY
概要

『ブラック・ダリア』(原題:The Black Dahlia/2006年)は、巨匠ブライアン・デ・パルマ監督が実在の猟奇殺人事件を映画化したノワール。1947年、ロサンゼルスの空き地で発見された切断遺体「ブラック・ダリア」をめぐり、捜査にあたる若き刑事が、美しくも危険な女たちが誘う底なしの欲望と腐敗の迷宮へ墜ちていく様を、ビルモス・ジグモンドの格調高い撮影とデ・パルマ監督特有の華麗なカメラワーク、そしてマーク・アイシャムの哀愁漂う旋律と共に描き出す。

目次

漆黒の神話とデヴィッド・フィンチャーの幻影

ブライアン・デ・パルマが、ジェイムズ・エルロイの暗黒小説を映画化した『ブラック・ダリア』(2006年)。公開当時、この野心的な作品は批評家たちから容赦ない酷評の嵐を浴びた。だが、題材自体は文句なしに映画ファンの血を沸き立たせる、最高に魅力的なシロモノである。

まずは簡単に、ベースとなった歴史的事件についておさらいしておこう。1947年1月15日、ロサンゼルスの空き地で、22歳の女優志願の美女エリザベス・ショートの遺体が発見された。

その遺体は腰から真っ二つに切断され、血を完全に抜かれ、口は耳まで切り裂かれるという、正視に耐えない猟奇的な状態だった。発見者が壊れたマネキンと見間違えたという逸話が、その異常性を物語っている。

漆黒の髪と黒い服を好んだ彼女を、マスコミは当時の映画『青い戦慄(The Blue Dahlia)』をもじって「ブラック・ダリア」と名付けた。このLA犯罪史に燦然と輝く最悪の未解決事件は、ハリウッドの華やかなスクリーンの裏側にウジ虫のように潜む、人間の腐敗や狂気を象徴する完璧な暗黒神話となったのだ。

エルロイはこの事件をモチーフに、血と欲望と暴力に満ちた現代ノワール文学の金字塔「L.A.四部作」の開幕作として、1987年に小説『ブラック・ダリア』を発表。

当然、ハリウッドがこの暗黒ノワールを放っておくはずがない。『L.A.コンフィデンシャル』(1997年)の大成功を経て、いよいよ本格的に本作の映画化が始動した際、最初に監督のイスに座るはずだったのは、なんとデヴィッド・フィンチャーだった。

L.A.コンフィデンシャル
カーティス・ハンソン

フィンチャーは本作を、長尺のミニシリーズで構想していたという。しかし、スタジオとの予算やヴィジョンの不一致により無念の降板。結果として、ハリウッドを離れて燻っていたブライアン・デ・パルマに白羽の矢が立つことになる。

フィンチャー版『ブラック・ダリア』への渇望が、本作に対するハードルを理不尽なまでに跳ね上げてしまったことは否めない。

ファム・ファタールの崩壊と去勢されたエロスの悲劇

デ・パルマ版『ブラック・ダリア』が、原作の持つ重厚な凄惨さやネットリとした妖艶さを映像に落とし込めず、「散漫だ」「不完全燃焼だ」とブ叩かれた最大の理由。それは明白だ。フィルム・ノワールの絶対的な心臓部である、ファム・ファタールの決定的な機能不全である。

ノワール映画というジャンルは、古来から常に女性の危険な魔力を中心に駆動してきた。しかし、本作はその肝心要のキャスティングにおいて、盛大にズッコケている。

まず、謎に包まれた大富豪の娘マデリンを演じたヒラリー・スワンク。『ミリオンダラー・ベイビー』(2004年)でオスカーを獲得した素晴らしい名優だが、ノワールのファム・ファタールとしては完全に的外れ。

この役に求められるのは、男の理性を狂わせる退廃的な妖艶さだが、画面に映る彼女の肉体はあまりにも筋肉質で硬質、そして健康的すぎるのだ。

「被害者のエリザベス・ショートにウリ二つ」という物語の超重要設定も、スワンクの顔立ちでは観客の納得を全く得られず、ミステリーの根幹の説得力が吹き飛んでしまっている。

さらに痛恨なのが、主人公の同僚の妻であるケイを演じたスカーレット・ヨハンソン。ムンムンとした肉感的なエロスを放つ彼女だが、ジョシュ・ハートネット演じる主人公との絡みは驚くほど非セクシュアルで、妙な淡白ささえ漂っている。ドス黒い欲望が渦巻くはずのL.A.の夜に、危険なエロティシズムの匂いが全く漂ってこないのだ。

ノワール映画においてファム・ファタールの魅力が半減してしまうと、物語のエンジンも完全に停止してしまう。デ・パルマがこのキャスティングで妥協(誤算?)したことは、本作にとって致命傷となってしまった。

変態性なきデ・パルマと、スクリーンに滴る愛すべき脂肪分

では、この映画は観る価値のない完全な失敗作なのか?いや、断じてそんなことはない!なぜなら、ブライアン・デ・パルマという監督は、そもそも無駄な贅肉こそを愛する、過剰な脂肪分のマエストロだからだ。

彼の映画には常に、物語の推進力としては全く不要とされる、変態的なフェティシズムに満ちた場面が存在する。そしてそれこそが、シネフィルたちを熱狂させてきた最大の旨味なのだ。

『ブラック・ダリア』にも、その愛すべき無駄な脂肪分はタプタプに健在。冒頭、ド派手なクレーンカメラの長回しで捉えられる、路上での暴動とボクシングの乱闘シーン。まるで映画のトーンを決定づけるかのようなものすごい熱量だが、結局その後の捜査には何一つ活かされない。

警察署内で唐突に発生する大地震のシーンも、ミステリーの筋書きには全く関係なし。ヨハンソンの体に残された傷跡の秘密や、スワンクのレズビアン・クラブでの退廃的な描写など、ドラマの解決に寄与しない余計なエピソードがこれでもかと詰め込まれている。

これこそがまさしくデ・パルマ印!『キャリー』(1976年)の狂った血のシャワー、『スカーフェイス』(1983年)の過剰すぎるコカインの山、『ボディ・ダブル』(1984年)の異常に長い覗きのシークエンス。物語をわざと停滞させ、観客を戸惑わせる。しかし、その偏執的な視線こそが画面を濃厚にコーティングし、異様な映画的快楽を残すのだ。

キャリー
ブライアン・デ・パルマ

『ミッション・トゥ・マーズ』(2000年)の失敗でハリウッドのシステムから弾き出されたデ・パルマは、フランス資本を頼り、ヨーロッパでこのアメリカの暗黒神話を撮り上げた。

外部の異邦人としてノワールを再構築したため、どこかセット感丸出しのコスプレのような人工的な空気が漂ってしまったのは事実だ。しかし、そこに滴る過剰な演出と変態的なカメラワークの痕跡にこそ、我々はこの呪われた映画の真の価値を見出すべきだろう。

ブライアン・デ・パルマ 監督作品レビュー