人間の“葛藤”を「ジョハリの窓」的アプローチで描いた野心作
突然ですが、皆さん「ジョハリの窓」って知ってますか。
ジョセフ・ルフト氏とハリー・インガム氏によって考案された、有名な「対人関係における気づきのグラフモデル」で、心理学やカウンセリングといった分野でよく使われているそうな。このモデルによると「自己」というものは、
・開放された窓(自分も他人も知っている自己)
・盲目の窓(自分は気がついてないが、他人からは知られている自己)
・隠された窓(自分は知っているが、他人からは知られていない自己)
・未知の窓(自分も他人も知らない自己)
の4つに分類できるそうである。全体から「開放された窓」が閉める占有率が高くなれば、それは即ち「抑圧された部分が少なくなる」ということであり、「無意識の部分が自分として理解できるようになる」ということであり、「気付かずにいた能力や才能を発見する」ということである。逆に「盲目の窓」「隠された窓」の占有率が高くなると、人間関係において問題がおきやすくなってしまう。
おそらくこの映画におけるドッペルゲンガーとは、「盲目の窓」、「隠された窓」が具象化したイメージだろう。医療機器メーカーに勤める本編の主人公・早崎(役所広司)は、「人工人体」の開発に日夜明け暮れているがなかなか成果は上がらず、毎日プレッシャーにさらされている。
すっかり疲弊した彼の元に、突然自分に瓜二つのドッペルゲンガーが現れ、彼に協力を申し出る。ドッペルゲンガーの献身的とも言える働きにより、早崎は自分の研究を着実に進めていくが、それでも彼はもう一人の自分を認めない。
女性に積極的で、唯我独尊で、暴力もいとわないもう一人の自分。彼はドッペルゲンガーを利用しつつも、激しく拒絶するのである。
「葛藤」とは、こころのなかで相反するふたつの要素が対立することだけれども、黒沢清はそれを「開放された窓」と「盲目の窓」、「隠された窓」の乖離という形式でビジュアライズしてみせる。
早崎とドッペルゲンガーの会話のシーンを、3分割されたスプリット画面で進行させていく手法なんぞは実に象徴的だ。
役所広司がドッペルゲンガーを自らの手で殺すシーンとは、彼のなかで「ジョハリの窓」の位相が変化することに他ならない。隠された自己を克服した瞬間に彼は解放され、過去と訣別する。
血で滲んだコートを着込み、『チャイナタウン』(1974年)のジャック・ニコルソンのごとく切られた鼻を絆創膏で巻いた役所広司の異様な風体は、ドッペルゲンガーを自己内部に摂り込み、秘められていた欲望が顕在化したことを暗喩している。
関係性から自立した主体としての自分。そこには突き抜けた爽快感がある。
ユーモラスな動きをしながら崖から堕ちていく「人工人体」を見つめながら我々観客が感じるのも、きっとある種の清々しさなのだ。
- 製作年/2003年
- 製作国/日本
- 上映時間/107分
- 監督/黒沢清
- 脚本/黒沢清
- 製作/平井文宏、加藤鉄也、宮下昌幸、吉岡正敏、神野智
- プロデューサー/佐藤敦、下田淳行、川端基夫
- 脚本/吉澤健
- 撮影/水口智之
- 美術/新田隆之
- 編集/大永昌弘
- 音楽/林祐介
- 録音/郡弘道
- 照明/豊見山明長
- 役所広司
- 永作博美
- ユースケ・サンタマリア
- 柄本明
- ダンカン
- 戸田昌宏
- 佐藤仁美
- 鈴木英介
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