『カプリコン・1』(1977)
映画考察・解説・レビュー
『カプリコン・1』(1977年)は、ピーター・ハイアムズ監督が手がけた陰謀サスペンスの傑作である。人類初の火星探査がねつ造であったという衝撃的設定を通じて、国家と映画が共犯関係を結ぶ様を描く。虚構と現実、報道と演出、英雄と操り人形の境界が揺らぐ瞬間、スクリーンそのものが暴力装置と化す。
虚構の火星──〈国家とスクリーン〉の共犯関係
ピーター・ハイアムズは、デビュー以来一貫して「シネマスコープの横長画面」を用い、孤独な男たちが巨悪に立ち向かう姿を描いてきた職人監督である。
『アウトランド』(1981年)でショーン・コネリーを宇宙ステーションの保安官として孤立させ、『エンド・オブ・デイズ』(1999年)ではアーノルド・シュワルツェネッガーに悪魔と一騎打ちをさせた。
ハイアムズの映画における“広大な横長画面”とは、スケールを誇示する装飾ではなく、孤独を可視化する空間的装置なのだ。
『カプリコン・1』(1977年)において、その手法は一つの極点に達する。物語は、人類初の火星有人探査が実はスタジオ撮影による“ねつ造”だったという衝撃的設定から始まる。
つまりこの映画は、国家が自らの威信を守るために“映画的虚構”を利用するという、入れ子構造のサスペンス。スクリーンの中で政府がフェイク映像を作り、観客はその“映画の中の映画”を観る。この二重の虚構構造が、〈映画=国家の装置〉という不穏な主題をあぶり出している。
ハイアムズは、ハリウッドが得意とする陰謀劇の文法を引用しながらも、それをスペクタクルの外観ではなく、映像の信頼性そのものに突きつける。虚構と現実、報道と演出、英雄と操り人形──その境界は、ワイドスクリーンの中で不安定に揺らぐ。
二重構造のサスペンス──“見る者”と“逃げる者”
『カプリコン・1』の構成は見事に二重化されている。ひとつは、陰謀の背後を追う新聞記者カエル・ブリューベイカー(エリオット・グールド)の視点。
もうひとつは、フェイク撮影を強要され、政府の追跡から逃亡する三人の宇宙飛行士の視点である。後者の中に、あのO・J・シンプソンが含まれていることも今となっては皮肉な響きを帯びている。
この二重構造によって、観客は“追う側”と“追われる側”の視点を往還しながら、陰謀の全貌を多層的に把握する。単線的なプロットを拒み、モンタージュによって並走する二つのドラマが、緊張と間のリズムを生み出していく。
新聞記者の論理的探求と、砂漠を逃げる宇宙飛行士たちの生理的恐怖。その対照が、この映画の呼吸そのものを形成している。
ハイアムズは、単なる“国家の陰謀”を描こうとしているのではない。彼が見つめるのは、真実を追う者がいかにしてフィクションの中に飲み込まれていくかという構造的な悲劇だ。
現実を暴こうとする者ほど、虚構の文法の中でしか語れない──それがこの映画の冷徹なアイロニーである。
光と影の構図──ハイアムズ的〈横長の孤独〉
ハイアムズ映画の最大の特徴は、光の扱いにある。彼の画面は常に暗く、光源が限定され、陰影が明確だ。『カプリコン・1』でも、火星基地のセットや砂漠の風景は、光と影が劇的に対立し、人物は常に何かに覆われ、見えないものに包囲されている。
その構図は、ただのスタイリッシュな照明効果ではない。横長の画面をフルに使い、人物を極端に小さく配置することで、空間の広がりが孤立を強調する。ハイアムズのカメラは、世界の広大さと人間の矮小さを常に対比させる。これは『アウトランド』での宇宙ステーション内部の構図や、『2010年』(1984年)での宇宙空間の虚無にも通じる一貫した詩学である。
特に印象的なのは、砂漠を逃げる宇宙飛行士たちをロングショットで捉えた場面だ。人間は風景の中の微細な点となり、荒涼とした大地がフレームの支配者となる。
その画面は、ジョン・フォードの西部劇を思わせる雄大さと、冷戦時代の不信感が混ざり合った独特の緊張を孕んでいる。ハイアムズは、風景を人間心理の延長として構築する数少ない職人監督の一人なのだ。
リアリティとスリルの境界──“飛ぶこと”への恐怖
クライマックスのヘリコプター・チェイスシーンは、ハイアムズの職人気質が炸裂する瞬間だ。農薬散布用の複葉機が、政府の追跡ヘリを砂漠の上空で翻弄する。
現実的にはありえないシチュエーションだが、ワイドスクリーンで展開される映像のダイナミズムが、それを“信じられる虚構”へと昇華させている。
この場面では、風景そのものが音楽のようにリズムを刻む。ヘリのローター音、風を切る音、エンジンの唸り──それらが交響し、映像が純粋な運動の快楽に変わる。
『カプリコン・1』は陰謀映画であると同時に、身体と空間が衝突するアクション映画でもある。ハイアムズはここで、SFとリアリズム、陰謀とアクションのあいだに橋をかけ、映画的スリルの純度を最大限に高めている。
興味深いのは、この“飛ぶこと”のモチーフが、映画全体を貫く〈虚構への飛翔〉と重なる点である。国家は火星探査の嘘をつくために“飛行”を演出し、宇宙飛行士たちは“飛行”の中で真実を奪われる。
飛ぶことは夢であり、同時に墜落の予感でもある。ハイアムズのカメラはその両義性を、水平線の果てまで見届けようとする。
虚構を信じる勇気──ハイアムズの“男気”とは何か
『カプリコン・1』の核心にあるのは、虚構を否定することではなく、虚構の中に倫理を見出そうとする意志である。国家の嘘を暴く新聞記者も、真実を知らぬまま宇宙に旅立つはずだった飛行士たちも、結局はスクリーンという虚構空間の中でしか存在できない。だが、そこにこそハイアムズの“男気”がある。
彼の主人公たちはいつも、圧倒的な虚無の中で戦う。敵は国家権力であり、宇宙の暗黒であり、悪魔そのものだ。だが彼らは決して逃げない。孤立を恐れず、最後まで立ち向かう姿をハイアムズは正面から描く。彼にとって映画とは、“正義”の物語ではなく、“信念”の物語なのだ。
『カプリコン・1』は、国家の嘘を暴くサスペンスであると同時に、映画という虚構そのものへの賛歌でもある。シネマスコープの横長の画面に映るのは、広大な宇宙でも荒野でもない。
そこに映っているのは、虚構を信じることを諦めない人間の姿である。
- 原題/Capricorn One
- 製作年/1977年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/123分
- ジャンル/サスペンス、アクション
- 監督/ピーター・ハイアムズ
- 脚本/ピーター・ハイアムズ
- 製作/ポール・N・ラザルス3世
- 撮影/ビル・バトラー
- 音楽/ジェリー・ゴールドスミス
- 編集/ジェームズ・ミッチェル
- 衣装/パトリシア・ノリス
- エリオット・グールド
- ジェームズ・ブローリン
- ブレンダ・ヴァッカロ
- サム・ウォーターストン
- O・J・シンプソン
- ハル・ホルブルック
- テリー・サバラス
- カレン・ブラック
- カプリコン・1(1977年/アメリカ)
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