恋仲だった美佐緒さん(三條美紀)とは婚約破棄せざるを得なくなるし、看護婦見習いの峰岸るい(千石規子)には偽善者呼ばわりされてしまうし、なーんにも悪いことをしていないのに、ホント踏んだり蹴ったりの人生である。神を呪いたくなる気持ちも分かります。
僕はもともと、『赤ひげ』に代表されるヒューマン系クロサワ映画が大の苦手。あからさまな人間讃歌が胡散臭いことこの上なく、生理的にどーにも受けつけられず。
しかしこの『静かなる決闘』(1949年)では、極めて実直に“抑えきれない性的衝動”と“人間としての尊厳”との板挟みにある苦悩を自己告白していて、その脆弱性が作品をどこかチャーミングなものにしている。
何てったって、目が合うだけで女をはらませてそうなミスター野生本能ことトシロー・ミフネが、「僕は自分の欲望を抑えきれないー!」と絶叫したりするのだ(黒澤明は三船のこの芝居を観て膝がガクガク震えるほど興奮したという)。この演技だけでも『静かなる決闘』を観る価値アリである。
しかしまあこの映画は何と言っても千石規子だろう。悪態ばかりを吐くハスッパで無遠慮極まりなかった女が、最後では神々しいまでに可愛くなっているんだから、『ロッキー』のエイドリアンばりの激変ぶり。前述の三船の独白に対して、「うぉーんうぉーん」と泣き叫ぶ顔もナイスなり。
物事を斜めから見てしまう彼女の視点から、正義感の固まりのような三船敏郎を見つめるという構成の妙が、『静かなる決闘』を単なる説教臭い映画に陥らせなかった最大のヒットだろう。
演出面でいえば、特に音の使い方がバツグン。三船敏郎が父親(志村喬)に自分が梅毒であることを告白するシーンで優しいオルゴールの音が奏でられたり、事実を知って茫然自失となる千石規子のすぐ横で、「アッペの少年のガスが出た」と入院患者が陽気にハーモニカを吹いたりと、意図的なミスマッチ効果を狙っている。
絶望を強調するには、メランコリックな音楽よりも能天気な音楽のほうが効果的であることを、当時まだ30代だった黒澤は知り尽くしていたのだ。
当初のシナリオではラストで三船敏郎が発狂するというものだったらしいが、梅毒という病原菌を体内に抱えながらも、医師として懸命に職務を全うする姿を描くことこそが、やはり黒澤的な倫理なのだろう。
『静かなる決闘』は、黒澤が人間の本質的な倫理と文字通り“決闘”したフィルムなんである。
- 製作年/1949年
- 製作国/日本
- 上映時間/95分
- 監督/黒澤明
- 企画/本木荘二郎、市川久夫
- 脚本/黒澤明、谷口千吉
- 撮影/相坂操一
- 美術/今井高一
- 衣裳/藤木しげ
- 編集/辻井正則
- 音楽/伊福部昭
- 音響/花岡勝次郎
- 三船敏郎
- 三條美紀
- 志村喬
- 植村謙二郎
- 山口勇
- 千石規子
- 中北千枝子
- 宮島健一
- 佐々木正時
- 泉静治
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