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コレクター/ウィリアム・ワイラー

『コレクター』──気品の中に潜む狂気と“英国サイコ”の原点

『コレクター』(原題:The Collector/1965年)は、ロンドン近郊の屋敷を舞台に、青年フレディが若い女性ミランダを誘拐し監禁する異常な関係を描く。蝶の標本収集を唯一の生きがいとする彼は、愛を所有の形で実現しようとするが、その静かな狂気は次第に破綻していく。閉ざされた密室で、理性と暴力、支配と愛が交錯する心理劇である。

気品の中の狂気──テレンス・スタンプという矛盾

気品のある顔立ちと紳士然とした佇まい。アラン・ドロンやジュード・ロウの系譜に連なる正統派ハンサムとして称えられても不思議ではないテレンス・スタンプは、しかし、その透明なブルーの瞳の奥に狂気を宿している。

彼は決して“正道”のスターではなかった。『プリシラ』(1994年)でドラッグ・クイーンを演じ、観る者の期待を裏切るたびに、新しい異形の役者像を更新してきた。そんなスタンプの初期代表作が、ウィリアム・ワイラー監督による『コレクター』(1965年)。

ジョン・ファウルズの同名小説を映画化した本作で、彼は蝶の標本を集めることだけを生きがいとする青年フレディを怪演する。宝くじで手にした大金を元手に郊外の屋敷を購入し、美術学校に通う若い女性ミランダ(サマンサ・エッガー)を誘拐して監禁する──筋書きだけ見ればサイコ・スリラーの常套だ。だが、ワイラーの演出はその枠に留まらない。

純愛という名の暴力──歪んだジェントルマンの幻想

フレディは単なる変質者ではない。彼にとって監禁は恋愛の一形態であり、理想の愛を実現する唯一の手段なのだ。彼は女性を支配したいのではなく、「永遠に自分のそばに置きたい」という幼児的な願望の延長で行動する。

愛とは対話ではなく、収集であり、所有。蝶の標本を美しく並べるように、ミランダもまた“飾られる対象”でしかない。だがその倒錯は、スタンプの演技によって単なる狂気を超越する。

彼は一歩も外へ出ず、完璧なスーツを着こなし、トーストと紅茶を差し出す。彼の“奉仕”は礼儀正しく、彼の“愛”は論理的である。だからこそ恐ろしい。紳士的ふるまいと狂気が同居するこの人物像は、後年の『羊たちの沈黙』(1991年)のハンニバル・レクターにも通じる。

理性と狂気、知性と暴力、優雅さと残酷さ──それらが同一の精神に共存する時、観客は逃げ場を失う。英国という国がジャック・ザ・リッパーを生み、冷徹な知性と残虐の美学を共有してきたことを思えば、フレディはまさに“英国サイコ”の原点であり、後のホプキンスがその血脈を継いだと見るべきだろう。

密室における支配と反抗──ワイラーの冷徹な観察眼

『コレクター』は、監禁した男と監禁された女が織りなす閉鎖空間の心理劇である。物語の外には社会も倫理も存在せず、すべての関係が密室の中で完結する。ワイラーのカメラは決して感情を煽らない。

代わりに、二人の呼吸のズレ、沈黙の間、視線の微妙な軌跡を捉え、観客の神経をじわじわと蝕む。ヒッチコック的なサスペンス構成を踏まえつつも、ワイラーは恐怖を“出来事”ではなく“状態”として描く。恐怖は血ではなく、理解のすれ違いから生まれるのだ。

サマンサ・エッガー演じるミランダは、ただの被害者ではない。彼女は気まぐれに挑発し、皮肉を放ち、フレディの支配幻想を逆撫でする。閉ざされた空間の中で、二人の関係は恋愛にも似た依存の連鎖に変わっていく。

愛と支配、献身と暴力、尊敬と侮蔑。『コレクター』の密室は、人間関係そのものの縮図であり、ワイラーはその歪んだ美を淡々と観察する。

テレンス・スタンプの演技は、冷血でありながらどこか哀しい。彼の眼差しには、狂気と同じ量の孤独がある。『コレクター』とは、愛の名のもとに人間を標本化しようとした男の悲劇であり、同時に“恋愛”という制度そのものが内包する支配のメタファーでもある。

紳士的でありながら危険。静かでありながら暴力的。テレンス・スタンプの爬虫類的な粘着芝居こそ、この作品が半世紀を経てもなお観る者の神経を凍らせる理由である。

DATA
  • 原題/The Collector
  • 製作年/1965年
  • 製作国/イギリス、アメリカ
  • 上映時間/119分
STAFF
  • 監督/ウィリアム・ワイラー
  • 脚本/ジョン・コーン、スタンリー・マン
  • 原作/ジョン・ファウルズ
  • 製作/ジョン・コーン、ジャド・キンバーグ
  • 撮影/ロバート・サーティース、ロバート・クラスカー
  • 音楽/モーリス・ジャール
CAST
  • テレンス・スタンプ
  • サマンサ・エッガー
  • モナ・ウォッシュボーン