『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』(1985)敗戦後の幻影としてのアメリカ

『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』(1985)
映画考察・解説・レビュー

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『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』(原題:Year of the Dragon/1985年)は、『天国の門』で挫折したマイケル・チミノが再起をかけて放った犯罪ドラマ。ニューヨーク市警の刑事スタンレー・ホワイトは、チャイナタウンを牛耳るマフィアとの抗争に身を投じる。だが、そこにあるのは正義ではなく、ベトナム帰還兵としての敗北と偏執。彼が敵視するアジア系移民は、実は自らの喪失と恐怖の投影にほかならなかった。

亡命者チミノが叩きつけた、血塗れの遺言状

映画史には「触れてはいけない傷跡」というものが存在する。その筆頭格こそ、マイケル・チミノが引き起こした『天国の門』(1980年)という名の“映画災害”だ。

4,400万ドルという国家予算並みの大赤字、名門ユナイテッド・アーティスツの倒産、そして「天才」と称えられたチミノ自身の名誉失墜。彼はアメリカン・ニューシネマが夢見た「作家主義」という理想の最後の信徒であり、その理想があまりに肥大化しすぎて自爆した、悲劇の殉教者である。

ハリウッドという煌びやかな村から石を投げられ、荒野へと追放された〈亡命者〉。誰もが彼のキャリアは終わったと思った。彼自身も、もう二度とカメラを回せないと絶望したかもしれない。

そんな彼に「もう一度、暴れてみろ」と凶器を手渡したのが、イタリアの怪物プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスだ。チミノに与えられた新たな戦場は、ニューヨークのチャイナタウン。アメリカという巨大国家の裏側に広がる、血と暴力の暗部だった。

かくして生まれた『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』(1985年)は、チミノ自身が帰還不能点ーーポイント・オブ・ノー・リターンを越えながら書き殴った、執念の“遺言映画”となった。

「二度と戻れない男が、それでも愛憎入り混じる祖国アメリカを撮ろうとしたら、どんな歪な怪物が生まれるか」。その答えが、このフィルムには焼き付けられている。

70年代の実際の抗争事件を下敷きにしつつも、チミノの手にかかれば史実は彼個人の“妄念”へと変貌する。現実に肉薄すればするほど、逆に神話的な領域へと浮遊していくこの感覚。これこそが、亡命者が遠く離れた故郷を想うときに生まれる「誇張されたリアル」の正体ではないか。

敗戦のトラウマを背負った男の自滅劇

主人公スタンレー・ホワイトを演じるのは、当時フェロモンの塊だったミッキー・ローク。だが、本作の彼は。白髪交じりの髪をかき上げ、ヨレヨレのコートを着て、ベトナム戦争での敗北を「名誉の傷」として抱え込む、人生の羅針盤を完全に破壊されたポーランド系の退役軍人だ。

ここで重要なのは、脚本に参加したのが、後に『プラトーン』(1986年)で世界を震撼させる若き日のオリバー・ストーンだという事実。ストーンは、80年代の強いアメリカ(レーガン政権下)が見て見ぬふりをしていた「アジアへの潜在的恐怖」や「敗戦のフラッシュバック」といった猛毒を、エンターテインメントの血管に注射したのだ。

ホワイトは、チャイナタウンのマフィアたちに向けた憎悪の中に、敵ではなく「自分自身の影」を見てしまっている。彼が執拗にチャイナタウンを攻撃するのは、そこを新たな「戦場(ジャングル)」に見立て、ベトナムで勝てなかった戦争をやり直そうとしているから。

これはもう、捜査ではない。敗戦を呑み込めないアメリカ人による、悲しき〈代償行為〉だ。劇中、中国系刑事が静かに放つ強烈なセリフがある。「白人がまだ森で野蛮な暮らしをしていた頃、俺たちはもう船でアメリカに来ていたんだ」。

この言葉の重みといったら!ホワイトは反論できず、ただ黙り込むしかない。この「沈黙」こそが、80年代アメリカがひた隠しにしてきた敗北の輪郭を浮き彫りにする。

ニューヨークという街は、単なる犯罪都市ではない。アメリカが抱える記憶の断層であり、ホワイトという壊れた魂を通して、国家そのものの痛みを映し出す巨大な鏡である。

チミノが描こうとしたのは、勧善懲悪のアクションではない。「国が過去の過ちと折り合いをつけられないとき、その国の男たちはどう発狂していくのか」という、極めて現代的な問いかけなのだ。

暴走するオリエンタリズムと英雄神話の墓標

ノースカロライナにセットで建設されたというチャイナタウンは、霧とネオンが混ざり合い、赤い提灯が怪しく揺れ、ガラスには常に雨粒が滴る。視覚的には窒息しそうなほど美しい。だが、その美しさはあまりに人工的で、本来そこにあるべき“痛み”や“生活臭”を上書きしてしまっている。

かつて『ディア・ハンター』で、人間の痛覚を繊細に捉えた名手チミノの姿はどこにもない。本作の彼は、都市の人工美(デコレーション)に酔いしれ、血の匂いさえもファッションに変えてしまっている。

その背後には、間違いなくリドリー・スコットの『ブレードランナー』(1982年)の影がある。あの「未来のアジア像」を現代の犯罪映画に無批判にコピー&ペーストした結果、暴力のリアリティが蒸発し、街全体が「観光用のアジアン・テーマパーク」と化した。

これはいわゆる〈オリエンタリズム(西洋から見た偏見混じりの東洋趣味)〉の再生産であり、現代の視点ではアウトな表現も多い。だが、この「勘違い」が、逆に面白いともいえる。

チミノの演出は、「アメリカ人が勝手に想像し、恐怖し、憧れている“他者の国”」をそのまま映し出すプロジェクターだ。霧に包まれたチャイナタウンは現実の場所ではなく、アメリカの無意識下に広がる幻想空間。そこへホワイトが踏み込むことで、国家の内部に潜む異物の正体が暴かれる。

さらに、チミノ映画の宿命的弱点である「音楽の過剰さ」もここで爆発する。アジア的世界観に、なぜか壮大な軍楽的スコアを重ねるというミスマッチ。これは異文化の衝突というより、かつての〈帝国の残響〉が空回りしている音に聞こえる。美しいのに、とにかくうるさい。壮大なのに、どこか空虚。だが、この矛盾こそがチミノなのだ。

共同脚本のオリバー・ストーンが『プラトーン』で神話を解体しようとしたのに対し、チミノは最後まで神話に殉じ、その重みで自沈することを選んだ。

ホワイトの暴走は国家の暴走であり、彼の破滅は英雄神話の死だ。この映画は、アメリカ映画が「勝利の物語」を無邪気に語れなくなる直前に放った、最後の、そして最も危険な火花。40年近く経った今も、その燃え残りの熱は、画面の奥でくすぶり続けている。

DATA
  • 原題/Year of the Dragon
  • 製作年/1985年
  • 製作国/アメリカ
  • 上映時間/134分
  • ジャンル/アクション、クライム、バイオレンス
STAFF
  • 監督/マイケル・チミノ
  • 脚本/オリバー・ストーン、マイケル・チミノ
  • 製作/ディノ・デ・ラウレンティス
  • 原作/ロバート・デイリー
  • 撮影/アレックス・トムソン
  • 音楽/デイヴィッド・マンスフィールド
  • 編集/フランソワーズ・ボノー
  • 美術/ウォルフ・クレーガー、ヴィクトリア・ポール
CAST
  • ミッキー・ローク
  • ジョン・ローン
  • アリアンヌ
  • レナード・テルモ
  • レイ・バリー
  • カロライン・カバ
  • エディ・ジョーンズ
  • ジョーイ・チン
  • ヴィクター・ウォン
FILMOGRAPHY