『レオン』(1994)
映画考察・解説・レビュー
『レオン』(原題:Léon: The Professional/1994年)は、孤独な殺し屋レオン(ジャン・レノ)と、家族を失った少女マチルダ(ナタリー・ポートマン)の出会いを描く物語。犯罪と日常、暴力と愛が交錯するニューヨークの街で、二人は共に逃避行を続ける中で互いの存在に救われていく。滅びを運命づけられた関係が、破滅の中に一瞬の輝きを放つ。
『ニキータ』の亡霊と、硝煙とミルクの匂い
映画『レオン』(1994年)を語る前に、まずリュック・ベッソンが4年前に放った『ニキータ』(1990年)に敬意を表さねばならない。
この映画で、ジャン・レノは掃除人ヴィクトルとして登場。彼は死体を酸で溶かし、眉一つ動かさずに任務を遂行する、完全無欠のデス・マシーンだった。
そのヴィクトルが、もし少女と出会い、心を持ってしまったら?『レオン』は、ベッソンが『ニキータ』で描ききれなかった“怪物の人間化”というテーマを、ニューヨークという異国で極限まで純化させた、魂のセルフ・リメイクといえる。
だからこそ、本作には前作以上に濃厚な硝煙とミルクの匂いが混在している。殺し屋としての冷徹なスキル(ニキータの遺伝子)と、社会から隔絶された幼児性(ミルク)。このアンビバレントな要素が、アパートの一室で奇跡的な化学反応を起こす。
レオンは、ヴィクトルのように機械にはなりきれない。観葉植物を友とし、文字も読めない彼は、肉体は大人の殺人マシーンでありながら、精神は無垢な子供のままだ。
このねじれこそが、マチルダ(ナタリー・ポートマン)という傷ついた天使を迎え入れるための、唯一の鍵穴だった。もし彼が成熟した大人であれば、マチルダとの関係は単なる犯罪で終わっていただろう。
だが、彼らは「大人になれなかった男」と「早く大人にならざるを得なかった少女」として、欠落したピースを埋め合う共依存関係を築くしかなかったのだ。
ナタリー・ポートマンという小さなニキータの誕生秘話
この映画の勝因の99%は、ナタリー・ポートマンを発掘したことにある。
当時11歳だった彼女は、オーディションで一度「幼すぎる」という理由で落とされている。しかし、彼女は諦めず、再度ベッソンの前で演技をする機会を得た。そこで彼女が見せた即興演技にベッソン自身が涙し、即座に採用を決めたという伝説が残っている。
おかっぱ頭にチョーカー、MA-1ジャケットにショートパンツ。彼女が武器を手に取り、レオンから殺しの作法を学ぶ姿は、まさにリトル・ニキータという呼称がふさわしい。
だが、ベッソンは彼女を単なる戦闘少女にはしなかった。彼女は、レオンという大きな子供を母性で包み込む、マドンナとしての役割をも担っていたからだ。
ポートマン本人が近年、「今見ると複雑な心境になる」、「性的対象化されていた側面は否定できない」と語っている通り、この映画には間違いなく危うい視線が含まれている。
特に、マチルダが大人びた仕草でタバコをふかしたり、レオンを誘惑しようとする描写は、現代のポリティカル・コレクトネスやコンプライアンスの基準に照らせば、間違いなくアウトだ。
だが、その危うさもフィルムに定着させてしまったことが、映画というメディアの業といえる。彼女がいなければ、『レオン』はただのロリコン趣味アクション映画で終わっていただろう。彼女の圧倒的な聖性が、この背徳的な物語を、ギリギリのところで神話へと昇華させたのだ。
それに対して、ジャン・レノはあまりにも不器用すぎる。『ニキータ』のヴィクトルが見せなかった怯えや、戸惑い。身長190センチ近い巨漢が、小さな少女に振り回され、守ろうとする姿。それは、怪物が人間になろうとする、悲しくも美しい変身の過程なのだ。
「完全版」が暴く真実と、ゲイリー・オールドマンの怪演
映画ファンなら常識だが、本作には劇場公開版と、22分長い完全版(ディレクターズ・カット)が存在する。この違いは決定的だ。
完全版に追加されたのは、マチルダがレオンの殺しの仕事に同行してドアの開け方を学ぶシーンや、二人がレストランでシャンパンを飲みながら愛についての会話を交わすシーン、そして何よりマチルダがレオンに愛の営みを求める衝撃的なシーンだ。
これらは、二人の関係をより濃密に、より共依存的なものとして描く一方で、ロサンゼルスでの試写会では保守的な観客をドン引きさせた。「これはペドフィリア映画だ」と酷評されたため、公開版ではカットを余儀なくされる。
だが、ベッソンが本当に描きたかった愛と死の不可分性は、完全版にこそ宿る。マチルダの挑発に対し、レオンが銃口を突きつけて拒絶する緊張感。この性的な緊張があってこそ、プラトニックな結末がより一層の悲劇性を帯びる。
そして、この静謐な世界を破壊するために召喚されたのが、ゲイリー・オールドマン演じる悪徳麻薬捜査官スタンスフィールドだ。ベートーヴェンを聴きながら、謎の錠剤を噛み砕き、恍惚の表情で家族を惨殺するマッド・コップ。
「エヴリワーーーーン!!」と絶叫するシーンの、あの顔面崩壊レベルの歪みを見よ。 彼はこの映画における悪であると同時に、レオンとマチルダの純愛を証明するための、最凶の触媒なのである。
ラストシーン、マチルダは学校の庭に、レオンの形見である観葉植物を植える。やがてスティングの「Shape of My Heart」のイントロが流れ出した瞬間、我々は確信する。これは、『ニキータ』のヴィクトルが果たせなかった魂の救済なのだと。
根無し草だった男が、少女の中に永遠の根を下ろした瞬間。肉体は滅びても、愛は循環し、継承されていく。『レオン』は、その「凶暴な純愛」という一点突破だけで、映画史に永遠に残り続ける。
時代が変わろうとも、倫理観がアップデートされようとも、この痛みだけは、誰にも奪えないのだ。
- レオン(1993年/フランス、アメリカ)
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