ベルリン市民のモノローグによって物語が紡がれる、セピア色のロマンシチズム
一応映画ファンを自称しているからには、ヴィム・ヴェンダースの代表的作品として誉れ高い『ベルリン・天使の詩』は押さえておかなければならぬと思い、テレビ放送を録画したビデオを鑑賞してみたんだが、何度観ても睡眠薬を飲まされたかのごとく開巻20分くらいで熟睡モード。
この作品には、人を睡魔に陥れる魔力があるらしい。そんな状態が数年続いた訳だが、このたび遂に最後まで鑑賞することに成功!おめでとうございます。パチパチパチ。
しかし残念ながら、『ベルリン・天使の詩』はもともと僕と相性の悪い作品だったらしい。本来ならば詩的に響くであろうベルリン市民たちのモノローグは、僕にとって退屈以外のなにものでもなく、全編を包み込むセピア色のロマンシチズムは、僕にとってあざとさ以外のなにものでもなかった。つまり、僕には『ベルリン・天使の詩』の素晴らしさが1ミクロンたりとも理解できなかったんである。
かつてヴェンダースは、フランシス・フォード・コッポラに招かれてハードボイルド探偵モノの『ハメット』(1982)を監督したことがあるが、その時にハリウッドの商業主義的な製作システムとそうとう衝突したらしい。
定型化された演技、定型化された演出から脱却した、非ハリウッド的な物語構築手法にこだわる彼の語り口は、圧倒的な「だらしなさ」に満ちている。
『パリ・テキサス』ではその「だらしなさ」が、ライ・クーダーの哀愁に満ちたスライド・ギター、アメリカの原風景と合わさってブルージーに転化し、心地よい倦怠感を創出していた。しかし敗戦という負の記憶が濃厚に漂うベルリンを舞台にするやいなや、それは単なる物語の停滞にしか見えないのである。
ヴィム・ヴェンダースは映画に言葉を織り込んでいくことによって、映画の質と量を保証せんと努める。古代ギリシアの伝説的詩人ホメロスのような役回りを担う図書館の老人を例に挙げるまでもなく、この作品ではほぼベルリン市民のモノローグによって物語が紡がれていく。
そこから顕在化されるのはコミュニケーションの不在であり、愛の不在である。ところが、愛なき世界にあってどのように愛を獲得していったのか、その手続きは全く示されず、ピーター・フォークに「この世界はサイコーだぜ兄弟」というセリフを言わせるのみ。これじゃあイカンでしょ。
この映画が公開された1987年といえば、世界は東西緊張が続く冷戦構造のまっただ中。ベルリンの壁はドイツの分断の象徴であるからして、天使が人間になるというモチーフは、東ドイツから西ドイツへの越境、共産主義社会から資本主義社会への越境と読み解くこともできる。
自由への大いなる飛翔。確かに天使が実存に舞い降りた瞬間、そこには総天然色の美しい世界が彼を待ち受けていた。しかしそれは、過剰に甘くデコレーションされた世界ではなかったか。あまりにファンタジーとしての幻想に覆い尽くされた世界ではなかったか。
手がかりはあってもプロセスは提示しない、しかし結果として世界は美しいということだけは現前させる…。『ベルリン・天使の詩』はそのような印象を与える作品だ。優しさに満ちた映画ではあるけれど、僕の凝り固まったシニカルな殻を破ってはくれない。対象が何一つ掘り下げられていないからだ。
僕にはヴィム・ヴェンダースの才能が分からない。
- 原題/Der Himmel u¨ber Berlin
- 製作年/1987年
- 製作国/西ドイツ、フランス
- 監督/ヴィム・ヴェンダース
- 製作/ヴィム・ヴェンダース、アナトール・ドーマン
- 製作総指揮/イングリット・ヴィンディシュ
- 脚本/ヴィム・ヴェンダース、ペーター・ハントケ
- 撮影/アンリ・アルカン
- 音楽/ユルゲン・クニーパー
- 美術/ハイディ・リューディ
- 衣装/モニカ・ヤーコプス
- ブルーノ・ガンツ
- ソルヴェーグ・ドマルタン
- オットー・ザンダー
- クルト・ボウワ
- ピーター・フォーク
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