『コンドル』(1975年/シドニー・ポラック)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『コンドル』(原題:Three Days of the Condor/1975年)は、ジェームズ・グレイディの小説『コンドルの六日間』を原作に、シドニー・ポラックが監督した政治サスペンス。CIAの下部組織で出版物の分析を行う職員ジョー・ターナー(ロバート・レッドフォード)が、仲間の全員を殺害され、自らも追われる立場となる。事件の背後にある陰謀を探る中、彼は偶然出会った女性キャシー(フェイ・ダナウェイ)と行動を共にしていく。
レッドフォードの眩しすぎる反ヒーロー像
シドニー・ポラック監督による『コンドル』(1975年)の主人公は、コンドルという暗号名を持つジョー・ターナー。彼はCIAの外郭団体であるアメリカ文学史協会にひっそりと勤務している。
表向きは気品ある文学研究所だ。だが実際の任務は、世界中のミステリー小説や出版物を読み漁り、諜報活動のネタを拾い上げるという地味すぎる部署である。彼は銃の撃ち方すら怪しい、生粋のインドア系読書係なのだ。
ところがある日、昼食の買い出しから戻ると同僚全員が何者かに惨殺されていた。偶然にも難を逃れたコンドルは、わけも分からぬまま巨大な陰謀に巻き込まれ、孤独な逃走劇へと突入していく。
特殊な戦闘訓練すら受けていない非力な男が、知性と偶然だけを頼りに巨大な国家の欺瞞に立ち向かう。冷戦期のスパイ映画にありがちだった筋肉全開のマッチョイズムを根底から引っくり返した点こそが、本作の素晴らしい特異点である。
しかし、ここで巨大すぎる矛盾が発生する。この非力な反ヒーローを演じているのが、あろうことか絶頂期のロバート・レッドフォードなのだ。どう考えても彼のルックスは、裏方の読書係にしてはスクリーンに過剰なオーラを放ちすぎている。
本来なら、知識だけを頼りに怯えて逃げ惑う小市民として描かれるべきだろう。だがレッドフォードの端正すぎるルックスと立ち振る舞いが、彼を瞬時に完璧なアクションスターへと変換してしまうのだ。
危機に直面しても全く狼狽せず、極めて的確に状況を判断する。地味な読書係のはずが、いざ銃を構えれば百発百中のスナイパーだ。車を操れば、まるで逃がし屋のプロフェッショナル顔負けのハンドルさばきを見せつける。
ポラックのカメラもすっかり彼にメロメロだ。レッドフォードの金髪を美しく光らせ、その彫刻のような顔を完璧な角度で切り取り続ける。結果として巻き込まれた男のリアルな恐怖は後退し、理想的な男の孤独な戦いというハリウッド的カタルシスが画面を完全に支配してしまう。
だがこの矛盾こそが、映画というフィクションが持つ恐るべきマジックである。圧倒的なスターの輝きは、理屈っぽいリアリズムなどいとも簡単に凌駕してしまうのだ。
冷徹な暗殺者と孤独なヒロイン
レッドフォードの放つ圧倒的なスター性が映画をロマンチックに理想化する一方で、作品を冷酷な現実へと引き戻すのがフェイ・ダナウェイの存在だ。
彼女が演じるのは、逃走中のコンドルにたまたま拉致されてしまう一般女性キャシー。極限状態の中で恐怖を共有した二人は、いつしか束の間の愛を交わす。…いやいや、控えめに言っても展開が強引すぎるだろ。
だがポラックの演出は、決して甘ったるいロマンスには逃げ込まない。二人のベッドシーンの背景には、晩秋のモノクロ写真が静かにインサートされる。季節の死が画面を重く覆い尽くすのだ。愛が成立した瞬間に、すでに取り返しのつかない別れの予感が提示されている。
ダナウェイの眼差しは常に冷たく、感情の底がまったく見えない。彼女はコンドルという男に惚れ込んだのではない。彼が背負い込んだ底知れぬ孤独の淵を、ほんの一瞬だけ覗き込んだに過ぎないのだ。
観客の胸に去来するのはロマンチックな陶酔ではなく、チクチクと刺さるような痛みである。極限状況で芽生えた愛など、砂漠の蜃気楼のように儚い。これこそが70年代のアメリカ映画に共通する、パラノイア的な孤独の表現そのものだ。
そして忘れてはならないのが、殺し屋ジョウベルトを演じるマックス・フォン・シドーである。彼の登場によって、映画の体感温度は一気に氷点下まで冷却される。
極限まで感情を抑制したシドーの演技は、『エクソシスト』(1973年)で悪魔と死闘を繰り広げたあのメリン神父と同じ俳優だとは到底思えない。彼は冷戦期の倫理が崩壊した世界において、善でも悪でもない「死」そのものの質感を完璧に体現している。
プロの暗殺者でありながら、物語の終盤ではコンドルに人生の助言まで与えてみせる余裕っぷりだ。理想の光を放つレッドフォードと、現実のドス黒い闇を体現するシドー。
この二人の男の完璧なコントラストによって、サスペンスは息の詰まるようなテンションを最後まで保ち続けるのである。
音楽が鳴らすポリティカル・スリラーの到達点
この冷え切った都市の空気を完璧にパッケージングしているのが、名匠デイヴ・グルーシンによる映画音楽だ。
スムースなジャズの旋律の奥底に潜む、ヒリヒリとした緊張感。美しいメロディの裏側にべったりと張り付く絶対的な孤独。ピアノの冷たい残響は組織の無機質な空間を包み込み、レッドフォードの孤立を痛いほどに際立たせる。グルーシンの音楽は、都市の鼓動そのものを孤独のリズムとして響かせているのだ。
後年、彼が『ザ・ファーム 法律事務所』(1993年)で同様のアプローチを試みた際、この寂寞とした美学はうまく機能しなかった。それは1970年代特有のパラノイア的な時代空気だけが、この過度に孤独なジャズスコアを許容していた証拠だろう。グルーシンの旋律が流れるとき、スクリーンにはアメリカの夜の気配が濃密に漂うのである。
1970年代のポリティカル・スリラーは、常に圧倒的な孤立で幕を閉じる。体制の裏を暴いた者も、理不尽な陰謀に巻き込まれた者も、最後は一人きりで街角に立ち尽くすしかないのだ。
本作もまた、その冷酷なルールから逃れることはできない。コンドルは命がけで真相を突き止め、大手新聞社にすべてを暴露する。だが結末に待っているのは、輝かしい救済ではなく永遠に続く不安の持続だ。誰を信じていいか分からないまま、彼は再び冬のニューヨークの雑踏へと姿を消していく。
新聞社が本当にそのスクープ記事を掲載する保証など、どこにもない。国家という巨大なシステムは、たった一人の個人の告発で変わるほどヤワにできてはいないのだ。レッドフォードの端正な顔立ちに浮かぶのは、明るい希望ではなく圧倒的な諦念である。知性は巨大な暴力を前にして、あまりにも無力だ。
『コンドル』は、正義を無邪気に信じることの不可能性をスクリーンに叩きつけた、ポリティカル・サスペンスの傑作である。
- 監督/シドニー・ポラック
- 脚本/ロレンツォ・センプル・Jr、デヴィッド・レイフィール
- 製作/スタンリー・シュナイダー
- 製作総指揮/ディノ・デ・ラウレンティス
- 原作/ジェームズ・グラディ
- 撮影/オーウェン・ロイズマン
- 音楽/デイヴ・グルーシン
- 編集/フレドリック・スタインカンプ
- 美術/スティーヴン・B・グライムズ
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