“あやかし”を描きつつそれを解体するという、あまりにも困難な冒険
『姑獲鳥の夏』(2005年)であります。いやー田中麗奈ちゃん、カワイイかったなあー。可愛い帽子にチェックのパンツ(裾をロールしているのがまたイイ!)にサスペンダーというボーイッシュな出で立ちが、僕のツボを刺激しまくったのでありました。
おしまい。
…とこれで終わったら、何の映画のレビューか皆目検討がつかないので、もう少し『姑獲鳥の夏』の内容について書きます。
市川崑による金田一耕助シリーズが、モダンでコンテンポラリーな華麗なるビジュアル・ワークとして、岩井俊二や庵野秀明に影響を与えていることは周知の事実である。
江戸川乱歩がそうであったように、横溝正史もまた昭和初期という闇の時代を背景にして、美しくも妖しい“あやかし”のエッセンスを注ぎ込んだ。その“あやかし”を生粋のビジュアリストである市川崑は映像として流麗に転写し、成功したのである。
京極夏彦のデビュー作『姑獲鳥の夏』は、明らかに江戸川乱歩、横溝正史の系譜を継ぐ“あやかし”に満ちた作品ではあるが、その“あやかし”を認知科学というメスによって解体していることに注意すべきだろう。
冒頭の京極堂(堤真一)と関口巽(永瀬正敏)との対話シーンから、神秘の扉は開かれる(実相寺昭雄らしいバイアスのかかった構図&超広角レンズを堪能すべし)。
「この世に不思議なことなど何もないのだよ」
と、京極堂は語る。陰陽道、妖怪、祈祷など、物語はいかにも妖怪奇譚的なコードに彩られているものの、民俗学、量子力学、心理学といったサイエンスによって、闇は白日のものにさらされるのだ。
この作品が「映画化不可能」という紋切り型の宣伝文句で語られていたことは、僕には何となく分かるような気がする。
問題は博覧強記な情報量の多さにあるのではない。“あやかし”を描きつつそれを解体するという作業が、映画という感性に訴えかけてくるメディアにおいては、なかなか困難に思えたからだ。それが奇才・実相寺昭雄の手にかかったとしても、である。
“あやかし”を解体する作業とは、本編ではまさに「憑き物落とし」として描かれる訳だが、“あやかし”を発動させるための圧倒的なペダンチズムが、映画内で消化しきれていない。
故に、理路整然とした謎の解明シーンにおいて、ミステリー映画としての醍醐味・カタルシスが感じられないのである。事件を解明されて腑に落ちるというよりは、突然の展開に目を見張ってしまうのだ。
場面転換に地球儀のフィックス・ショットと月齢を併記するセンスはサイコーだが、やっぱり実相寺センセイには、変に理に落ちた作品を撮っていただくよりも、江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』(1992年)とか『D坂の殺人事件』(1998年)のような、より背徳的なテーマを扱ってもらった方が、アバンギャルドに暴れられるんではないか?
ちなみに彼が監修を務めた『いかレスラー』に関しては、なんで彼がこの仕事を引き受けたのか、今に至るまで全くの謎である。
- 製作年/2005年
- 製作国/日本
- 上映時間/123分
- 監督/実相寺昭雄
- 製作/荒井善清、森隆一
- プロデューサー/小椋悟、神田裕司
- 原作/京極夏彦
- 脚本/猪爪慎一
- 脚本協力/阿部能丸
- 撮影/中堀正夫
- 照明/牛場賢二
- 美術/池谷仙克
- 監督補/服部光則
- 編集/矢船陽介
- 堤真一
- 永瀬正敏
- 阿部寛
- 宮迫博之
- 原田知世
- 田中麗奈
- 清水美砂
- 篠原涼子
- すまけい
- いしだあゆみ
最近のコメント