『北北西に進路を取れ』(1959年/アルフレッド・ヒッチコック)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『北北西に進路を取れ』(原題:North by Northwest/1959年)は、アルフレッド・ヒッチコックによる娯楽映画の金字塔。ニューヨークの広告代理店重役ロジャー・ソーンヒル(ケイリー・グラント)が、架空の秘密諜報員「ジョージ・キャプラン」と誤認されたことから、全米を横断する壮大な逃走劇が展開する。謎の美女イヴ・ケンダル(エヴァ・マリー・セイント)との官能的な駆け引き、そしてラストシーンの列車がトンネルに吸い込まれる性的な暗喩に至るまで、ヒッチコックの遊び心と技巧が横溢。軽妙なユーモアや世界を股にかけるアクションのフォーマットは、後に誕生する『007』シリーズのプロトタイプとなった。
- 1959年ナショナル・ボード・オブ・レビュー:作品賞トップ10、助演男優賞(ジェームズ・メイソン)
- 第33回キネマ旬報(外国映画):第4位
- 1959年度カイエ・デュ・シネマ:第6位
ソール・バスが切り拓いたタイポグラフィの革命
『北北西に進路を取れ』(1959年)の幕開けは、映画史におけるグラフィック・デザインの決定的な転換点となった。
バーナード・ハーマンが作曲した、ファンダンゴのリズムを刻む熱狂的なスコアに乗せて、ソール・バスの手による幾何学的なラインが画面を縦横無尽に駆け巡る。これは、文字そのものが映像の一部として運動する、キネティック・タイポグラフィの先駆的な傑作だ。
当時、オープニング・タイトルは観客が着席するためのオマケに過ぎなかったが、バスはそれを映画の主題を予感させる「視覚的序曲」へと昇華させた。
斜めのグリッドが交差し、やがてそれが近代建築の象徴であるニューヨークのマンハッタンの高層ビルのガラス窓へと重なり合っていく。ここには、都会の洗練された秩序(グリッド)の中に、非日常的な亀裂(斜線)が走り、主人公が不条理な迷宮へと迷い込んでいく過程が象徴的に示されているのだ。
ソール・バスはこの手法を、のちの『サイコ』(1960年)でも発展させているが、本作の右肩上がりのエネルギーこそが、全編を貫く疾走感を決定づけている。
虚構のアイデンティティ
ヒッチコック作品の最大の魅力は、平凡な人物が突如として巨大な陰謀に飲み込まれる巻き込まれ型サスペンスにある。これはイギリス時代の傑作『三十九夜』(1935年)から一貫して追求されたテーマだが、本作においてその手法は一つの極致に達した。
主人公ロジャー・ソーンヒル(ケイリー・グラント)は、スパイとは無縁の広告業界のプレイボーイ。彼が架空の諜報部員ジョージ・キャプランと誤認される設定の妙は、そのキャプランという男が現実には存在しないという点にある。
ヒッチコックがここで描こうとしたのは、犯人探しというパズルではなく、「実体のない名前」という虚構が、いかにして生身の人間を死の淵まで追い詰めるかという不条理性。
ソーンヒルは自らの潔白を証明するために、存在しない他者を演じ続けなければならない。これはヒッチコックが『間違えられた男』(1956年)で描いた冤罪の恐怖を、より華やかな冒険譚へと反転させたセルフ・リメイク的な深化でもある。
もしこの役を、『裏窓』(1954年)や『めまい』(1958年)で見事な心理的葛藤を演じたジェームズ・スチュアートが担っていたら、作品はもっと暗く、神経質なトーンを帯びていただろう。
しかし、ヒッチコックが選んだのはケイリー・グラント。当時55歳のグラントは、衰えぬ肉体美と洗練されたユーモアを武器に、深刻な状況を粋なゲームに変えてしまう稀有なスターだった。
ヒッチコックはグラントを起用する際、彼が着こなすグレーのスーツ(キルガー、フレンチ&スタンバリー製)にさえ徹底してこだわったという。
どんなに過酷な逃走劇の中でも、グラントのスーツが汚れ、崩れていく様こそが、中産階級の安定が崩壊していく過程のメタファーとなっているのだ。
高田純次ばりの楽天的軽妙さは、サスペンスの緊張感を恐怖ではなく至上の娯楽へと変換する。観客はグラントという理想化された鏡を通じて、死の危機を祝祭的に追体験するのである。
マクガフィンの極北
名場面として名高いトウモロコシ畑の暗殺シーンは、ヒッチコックによる映画の文法の解体である。通常、暗殺は夜の闇や狭い路地裏といった視界を奪う場所で行われるものだが、彼はあえて遮蔽物のない、真昼の平原を選んだ。ここには影もなく、音楽もなく、ただ乾燥した風の音だけが流れる。
このシーンが恐ろしいのは、133ショットにも及ぶ緻密な編集によって、観客に何も起きない時間を耐えさせている点だ。遠くに現れるバス、通り過ぎる一台の車、そして旋回する農薬散布機。
ヒッチコックはサスペンスの本質が情報の配置であることを熟知していた。プロペラの轟音が近づくまで、観客は画面の中の「空白」に恐怖を感じる。
ここでは空間そのものが凶器へと反転しており、逃げ場がないという事実が、観客の視線を水平線に釘付けにする。このシーンのロケが行われたカリフォルニア州ワスコの荒涼とした風景は、のちの多くの映画における不条理な暴力のプロトタイプとなった。
クライマックスの舞台となるラシュモア山。アメリカ建国の父たちの巨大な顔は、揺るがぬ国家権力の象徴だが、ヒッチコックはその権威の顔の上で、登場人物たちを文字通りぶら下げた。このイメージの格差──歴史的なアイコン vs. 取るに足らない一個人の命──こそが、ヒッチコック的アイロニーの真骨頂である。
実際、アメリカ政府は大統領の顔の上で暴力を描くことに猛反発し、撮影許可は限定的なものとなった。結果としてセットで再現された大統領の鼻や顎の造形は、映画的な虚構としての強度を増し、かえってシュールレアリスム的な不気味さを漂わせている。
ここで争われるマイクロフィルムこそ、ヒッチコックが提唱したマクガフィン(物語を動かすための、実体はどうでもいい小道具)の最たるものだ。
巨大な歴史的記念碑の上で、目に見えないほど小さなフィルムを奪い合う。このスケールの対比が、個人のアイデンティティがいかに国家という巨大な装置に弄ばれているかを視覚的に証明しているのである。
時間をデザインする演出の極意
個人的に、ヒッチコックの天才性を最も強く感じるのは、中盤の飛行場での会話シーンだ。
ソーンヒルと諜報機関のボスである教授(レオ・G・キャロル)が、事件の核心を話す重要な場面だが、その台詞は飛行機の轟音によって意図的にかき消される。これは説明の省略というレベルを超えた、映画的な時間のデザインである。
ヒッチコックは、観客がすでに理解している情報を繰り返すことは「時間の浪費」だと断じた。したがって、あえてプロペラ音を被せることで、説明を圧縮し、映画のリズムを加速させたのである。これは映画が文字ではなく、体験であることの宣言だ。
そしてラストシーン、救出されたエヴァ・マリー・セイントを寝台列車の上の段へ引き上げ、口づけを交わした瞬間、列車がトンネルへと吸い込まれていく。
ヒッチコック自身が「最も猥褻なショット」と自負したこの性的メタファーは、一連のスパイ・アクションが結局のところ、抑圧された欲望の解放だったことをユーモラスに祝福している。
巻き込まれ型サスペンスの果てに待っているのは、正義の回復ではなく、男女の結合という生命の肯定なのだ。あっぱれと言うほかはない、最高に洒落たオマケなのだ。
参考文献・出典
- 監督/アルフレッド・ヒッチコック
- 脚本/アーネスト・レーマン
- 撮影/ロバート・バークス
- 音楽/バーナード・ハーマン
- 編集/ジョージ・トマシーニ
- 美術/メリル・パイ、ウィリアム・A・ホーニング
- 三十九夜(1935年/イギリス)
- バルカン超特急(1938年/イギリス)
- レベッカ(1940年/アメリカ)
- 海外特派員(1940年/アメリカ)
- 逃走迷路(1942年/アメリカ)
- 汚名(1946年/アメリカ)
- ロープ(1948年/アメリカ)
- ダイヤルMを廻せ!(1954年/アメリカ)
- 裏窓(1954年/アメリカ)
- ハリーの災難(1955年/アメリカ)
- 知りすぎていた男(1956年/アメリカ)
- めまい(1958年/アメリカ)
- 北北西に進路を取れ(1959年/アメリカ)
- サイコ(1960年/アメリカ)
- 鳥(1963年/アメリカ)
- 引き裂かれたカーテン(1966年/アメリカ)
- フレンジー(1971年/イギリス)
- ファミリー・プロット(1976年/アメリカ)
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