『ランダム・ハーツ』(1999年/シドニー・ポラック)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『ランダム・ハーツ』(原題:Random Hearts/1999年)は、シドニー・ポラック監督がハリソン・フォードとクリスティン・スコット・トーマスを主演に描いた異色のラブ・サスペンス。飛行機事故で妻を失った刑事ダッチは、遺品の調査を通して彼女が別の男性と不倫関係にあった事実に直面し、真相を追ううちに同じく配偶者を亡くした上院議員ケイと出会う。喪失の痛みと裏切られた記憶が二人の距離を揺さぶり、男は愛情と執着の境界線で自分自身を見失っていく。
失われた女への妄執と純愛
傑作の誉れ高いアルフレッド・ヒッチコック監督の『めまい』(1958年)は、物語の骨格だけを冷静に取り出してみれば相当な変態譚だ。
亡霊のような女に憑かれた男が、死者の影を執拗に追いかけ、最終的には別の女の肉体を借りて彼女の面影を完璧に再構築しようとする。
ジェームズ・スチュワート演じる主人公スコティが、マデリンという幻想の女を蘇らせていく過程は、感動的な愛の再生なんかじゃない。あれは完全に欲望の病理であり、狂気そのものだ。
それでも観客が彼の執着を単なる変質者として笑い飛ばせないのは、誰もが心の奥底で「過去の喪失をもう一度やり直したい」と願うスコティのような弱さを抱えているからだ。
シドニー・ポラック監督が手がけた『ランダム・ハーツ』(1999年)は、この『めまい』の狂気的な構造をそのまま現代に持ち込みながら、結果として見事に破綻させてしまった作品だ。
ハリソン・フォード演じるワシントンD.C.の警察内務調査室の警部補ダッチは、マイアミ行きの飛行機事故で愛する妻を突然失う。悲劇の夫として同情を集めるはずの彼だが、その死の影には残酷な真実が隠されていた。
妻は彼に嘘をつき、見知らぬ男と隣同士の席に座り、不倫旅行へと向かう途中で墜落死したのだ。一緒に死んだ男の妻である下院議員のケイ(クリスティン・スコット・トーマスが演じている)もまた、同じように夫の裏切りを知ることになる。
愛する者の突然の喪失と、それまでの人生を根底から覆すような裏切り。この二つが同時に降りかかったとき、男の心の中で「愛情」は「検証」へとドロドロに変質していく。
ダッチは妻が本当に自分を愛していなかったのか、なぜ裏切ったのかを確かめるために、彼女の死後もその生前の痕跡を執拗に追い続ける。内務調査室という「他人の不正を暴く」プロフェッショナルである彼が、そのスキルを死んだ妻の不倫調査に全振りしていく姿は、まさに現代版のスコティだ。
開発地獄とスターの引力─
しかしこの映画は、批評的にも興行的にも大きなつまずきを見せることになる。当時の製作費は約6400万ドルという大作規模だったにもかかわらず、世界興行収入は約7400万ドルにとどまり、プロモーション費用などを考えれば事実上の大赤字に終わった。
さらに米国の批評サイトであるRotten Tomatoesの批評家支持率はわずか15%という散々たる結果を記録。一流の監督とハリウッドのトップスターを揃えながら、なぜここまで評価が低迷してしまったのか。その原因を探るためには、この映画が抱えていた開発地獄を振り返る必要がある。
ウォーレン・アドラーが1984年に発表した同名小説を原作とするこの企画は、実は映画化までに15年もの歳月を費やしている。当初はダスティン・ホフマンが主演する予定で進められ、その後もケビン・コストナーやトム・クルーズといった名だたるスターたちが興味を示しては離脱していった。
最終的にハリソン・フォードが主演と製作総指揮を兼任し、カート・ルードティックらの脚本でシドニー・ポラックがメガホンを取るという鉄壁の布陣に落ち着いたわけだが、この巨大なスター映画としての枠組みが、物語の持つ本来の毒をすっかり抜いてしまったのだ。
ハリソン・フォードという俳優は、常に正しく、タフで、最終的には困難を乗り越える頼れる男というパブリックイメージが強すぎる。
彼がどれだけ妻の不倫相手の素性を暴こうと躍起になっても、ストーカーまがいの行動を取っても、カメラは彼を異常者としてではなく、傷ついた可哀想なヒーローとして捉えてしまう。
本来なら、ダッチの行動はかなり気持ち悪くて病的なものだ。死んだ妻の不倫相手の妻であるケイの職場にまで押しかけ、彼女の平穏な生活を乱してまで真実を知ろうとする。
この暴力的なまでのエゴイズムを、映画はフォードの持ち前の誠実さで綺麗にコーティングしてしまった。結果として、観客は主人公の狂気に共犯者として巻き込まれるスリルを奪われ、ただの「未練がましいおじさんの行動」を客観的に眺めることになってしまったってわけだ。
狂気を遠くから眺める透明なカメラ
僕から見ても、この映画の最大の問題点は、やはり監督のシドニー・ポラックが狂気を遠くから眺めてしまったことにあるように思う。
『めまい』における最大のスリルは、観客がスコティの歪んだ幻視の内部に完全に閉じ込められることから生まれていた。主観の渦がそのまま映像表現となり、サンフランシスコのうねるような坂道や、目が眩むような螺旋階段の視覚効果が、彼の崩壊していく精神構造そのものを映し出す。カメラ自体が病に感染し、異常な愛情の構造を観客に強制体験させていた。
ところが『ランダム・ハーツ』では、映像は常に安全な外側から撮られている。物語の序盤、ダッチとケイそれぞれの日常エピソードをカットバックで並列に見せる構成は、状況説明としては非常にわかりやすい。
しかし、それはまるでテレビドラマのような客観性にとどまっており、観客を主人公のドロドロとした心理の奥底へ導く回路を早々に断ち切ってしまう。
主人公の執着も怒りも、映像表現とまったく共振しないまま、ただ台詞と状況だけで進行していく。フィリップ・ルースロによる撮影は透明感がありすぎるほど美しく、それが逆に登場人物たちの泥臭い狂気を完全に洗い流してしまっている。
もしこの映画が、ダッチの歪んだ内面を中心にして世界を再構築し、その妄執を不気味な視覚的構図として描き出すことができていたなら、傑出した異形の愛の映画として成立していたはずだ。しかしポラックは、感情を映像で描くのではなく、理性的に説明することを選んでしまった。
たとえば、精神のバランスを崩しているはずのダッチが真相を求めてマイアミへ赴くシーン。そこで流れるデイヴ・グルーシンの都会的で洗練されたラテン・ミュージックやジャズのスコアは、男の悲愴な心理とは絶望的なまでに乖離している。
明るい陽光の中に情念は散逸し、映像と音楽のミスマッチがそのまま演出の迷走を雄弁に物語っている。
失われた主観と安全圏への逃避
やがて映画は、異常心理のドラマから突然再婚ロマンス、あるいは傷ついた中年男女のメロドラマへと舵を切る。
ダッチとケイが肉体関係を持つ場面もあるが、そこにあるのは抑えきれない情動やエロスではなく、ただ同じ傷を共有した者同士という、義務感で結ばれたような無機質な空虚さだ。
スクリーンから熱はまったく伝わってこない。ダッチは妻の幻影をケイに重ねているのか、それとも純粋にケイを求めているのか。そうした複雑で倒錯した心理のグラデーションに踏み込むことを、ポラックはひたすら避けているように見える。
この映画の欠落は、単なる一作品の演出の拙さというレベルを超えて、ヒッチコック以後のアメリカ映画全体が抱え込んでしまった「主観の消失」という病理を象徴している。
被写体を歪ませ、カットのテンポで圧迫感を煽り、時間の反復で観客の視覚を狂わせる。そうした映画的な非理性の表現を、良識あるハリウッドの優等生監督たちは手放してしまった。
ポラックのカメラはいついかなる時も冷静であり、その整然とした理性的な構図が、物語の根底にあるはずの狂気を綺麗に中和してしまうのだ。理性の画面のなかに非理性の物語を無理やり押し込めようとする致命的な矛盾。そこに、社会派のドラマやロマンスを得意としてきた名匠の限界がくっきりと露呈している。
この物語を真に理解し、正しく映像化できたのは、おそらくロマン・ポランスキーのような監督だったに違いない。閉ざされた空間での息苦しさ、視覚の偏執的なこだわり、そして男女間の痛みを伴う支配と服従の関係性。彼の手にかかっていれば、この作品は間違いなく愛という名の不治の病を記録した傑作ドキュメントになり得ただろう。
しかしポラックは、あまりにもハリウッドの倫理と常識を守ることにこだわってしまった。ゆえに本作は、物語の構造レベルではヒッチコックを理解しすぎているがゆえに生まれ、同時に演出レベルではヒッチコックの狂気を一ミリも継承できなかったのである。
残された者たちの行方
さらに物語の焦点を曖昧にしているのが、ケイというキャラクターが背負わされた政治的な背景だ。彼女は現役の下院議員であり、再選を控えた厳しい選挙戦の真っ只中にある。
夫の不倫と突然の死というスキャンダルは、彼女の政治生命を絶ちかねない致命的な爆弾だ。ダッチが個人的な妄執から真実を暴こうとする私的なベクトルに対して、ケイは社会的地位を守るために真実を隠蔽しようとする公的なベクトルを持っている。この対立構造自体は脚本として非常に秀逸で、大きな可能性を秘めていた。
しかし、映画はこの二つのベクトルの衝突を最後までスリリングに描ききることができない。ケイの選挙戦という社会的な文脈は、ダッチの個人的な狂気を相対化する役割を期待されながら、結局のところ物語の推進力を削ぐだけのノイズになってしまっている。
彼女の冷徹な政治家としての顔はいつの間にか鳴りを潜め、最終的にはダッチの強引なペースに巻き込まれる、悩める一人の女性へと縮小されていくのだ。
クリスティン・スコット・トーマスが持ち前の知性と気品でなんとかキャラクターに説得力を持たせているものの、脚本が彼女に強いる感情のブレにはどうしても不自然さが付きまとう。
そして結末。空港での二人の再会シーンは、ハリウッド映画的なほろ苦くも希望のあるラストとして綺麗にパッケージされている。だが、そこに至るまでのダッチの病的な執着の数々を思い返すと、このさわやかな幕引きには強烈な違和感しか残らない。
彼らは本当に過去の幻影から解放されたのだろうか。それとも、ただ新しい依存先を見つけただけなのだろうか。カメラがその疑念を一切持たず、あくまで感動的なロマンスの着地点として二人を無邪気に捉えているところに、この映画の最も無自覚な恐ろしさがある。
僕たちは、狂気の物語が常識という名のフィルターを通されることで、いかに凡庸で不可解なものに変質してしまうのかを、この133分のフィルムを通して目撃させられるのだ。
- 監督/シドニー・ポラック
- 脚本/カート・リュードック
- 製作/シドニー・ポラック、メアリーケイ・パウエル
- 原作/ウォーレン・アドラー
- 撮影/フィリップ・ルースロ
- 音楽/デイヴ・グルーシン
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