2025/12/9

『どですかでん』(1970)徹底解説|黒澤明スラムの幻想と映画の終焉

『どですかでん』(1970年/黒澤明)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー

10段階評価
6
OKAY

概要

『どですかでん』(1970年)は、黒澤明が山本周五郎の小説『季節のない街』を原作に、木下惠介、市川崑、小林正樹らと共に結成した「四騎の会」の第1回作品として放った意欲作。黒澤にとって初のカラー作品となった本作は、都会の片隅にあるゴミ捨て場に隣接したスラムを舞台に、そこに住まう個性豊かな、しかしどこか壊れた人々が織りなす生活を、現実離れした鮮烈な色彩と詩的なリズムで活写する。公開当時は商業的な苦戦を強いられ、黒澤の精神的苦境の引き金ともなったが、第44回アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされるなど海外で高く評価された。

受賞歴
  • 第44回アカデミー賞:外国語映画賞
  • 第24回ローカルノ国際映画祭:審査員特別賞
  • 第25回毎日映画コンクール:男優主演賞
  • 第44回キネマ旬報(日本映画):第2位
目次

四騎の会の夢と、『トラ・トラ・トラ!』の呪縛

1970年という年は、黒澤明にとって地獄の入り口だった。

かつて『七人の侍』(1954年)や『用心棒』(1961年)で世界を熱狂させ、天皇として君臨していた彼は、キャリア最悪の泥沼にいた。ハリウッド進出作となるはずだった『トラ・トラ・トラ!』(1970年)が、撮影現場での立ち回りや予算超過を理由に監督を解任されるという、屈辱的な更迭劇を味わった直後だったからだ。

トラ・トラ・トラ!
リチャード・フライシャー、舛田利雄、深作欣二

「黒澤は精神に異常をきたしている」、「もう映画は撮れない」。そんな噂が業界を駆け巡る中、彼は起死回生の一手を打つ。それが、木下惠介、市川崑、小林正樹という日本映画界の巨匠たちと結成した独立プロダクション、四騎の会。その記念すべき第1作として選ばれたのが、『どですかでん』(1970年)だった。

黒澤の狙いは明白。ハリウッドで貼られてしまった、“金のかかる監督”というレッテルを剥がすことだ。そのために彼は、山本周五郎の小説『季節のない街』を原作に選び、徹底した低予算と早撮りを敢行する。

スター俳優を排し、舞台俳優や無名の役者を起用。セットはゴミ捨て場のようなオープンセット一箇所のみで、撮影期間はわずか28日間。かつて数億円の巨費を投じて城を築き、騎馬隊を走らせた黒澤の映画とは思えないほど、ミニマムな作品となった。

黒澤は、このスラム街のセットの土を、わざわざ別の場所から運ばせた赤土に入れ替え、壁や地面にペンキで直接色を塗りたくったという。本来ならモノクロームのリアリズムで描かれるべき貧困の風景が、ここでは毒々しいまでの原色で彩られている。

それは、現実を直視できないという黒澤自身の精神状態の投影であり、崩壊しつつある日本映画界に対する、最後の、そして狂気じみた「絵画的抵抗」でもあったのだ。

極彩色のスラムと透明な家

黒澤明は、もともと画家志望だった。初のカラー作品となる本作には、その出自が色濃く現れている。彼はリアリズムを完全に放棄し、エクスプレッショニズム、もしくはフォーヴィスムの手法を映画に持ち込んだ。

舞台となるスラム街は、時間も場所も特定できない抽象空間だし、そこの住人たちも、社会から棄てられた奇人ばっかりである。

「どですかでん、どですかでん」と叫びながら、見えない電車を運転する少年・六ちゃん(頭師佳孝)。廃車になったシトロエンの中で、見えない豪邸の設計図を語り続けるホームレス親子。顔面神経痛に苦しむ男、酒乱の肉体労働者、交換夫婦を楽しむカップル。

彼らは皆、現実の重みに耐えきれず、それぞれ幻想という殻に閉じこもっている。特に圧巻なのが、島田陽子演じる薄幸の少女・かつ子をめぐる色彩設計だ。

昼間から酒を食らう暴力的な養父(三谷昇)に犯され、妊娠してしまう彼女。その悲劇的なシーンにおいて、黒澤は画面を強烈な赤と黄色で埋め尽くす。

散乱する造花、壁の落書き、そして彼女の衣装。まるでアンディ・ウォーホルか、あるいはゴッホの絵画のように、色彩が感情そのものとして叫び声を上げている。

カメラマンの斎藤孝雄と福沢康道は、黒澤の指示の下、影の部分にまで照明を当て、陰影を消し去ることで、画面を平面的な絵として構成した。

しかし、その美しさは残酷だ。父親(伴淳三郎)が息子に「素晴らしい門構えの家」の幻影を語って聞かせる一方で、現実に息子は腐った魚を食べて食中毒で死んでいく。この「幻想の美しさ」と「現実の死」の対比こそが、本作の核だ。

赤ひげ』までの黒澤作品にあったヒューマニズムは、ここでは影を潜めている。あるのは、人間は幻想なしでは生きていけないという諦念と、その幻想がいかに無力であるかという、冷徹なニヒリズムだ。

乞食の息子が死んだとき、父親はまだ見えない家の設計図を掘り続けている。このシーンの虚無感は、黒澤映画史上、最も救いようのない瞬間の一つだろう。

「どですかでん」というレクイエム──興行的惨敗と自殺未遂

映画のタイトルにもなっている「どですかでん」という音。これは六ちゃんが口ずさむ電車の走行音だが、同時にこの映画全体を支配する、狂気のリズムでもある。武満徹の音楽は、このリズムに呼応するように、明るく、軽快で、そしてどこか壊れたオルゴールのように響く。

六ちゃんにとって、このゴミ溜めのスラムは、彼が運転する電車が走る輝かしい路線だ。彼は狂人と呼ばれるが、この映画の中で唯一、自分の世界を完全にコントロールし、幸福に生きている存在でもある。

おそらくだが、これは黒澤自身のメタファーではないだろうか?社会(映画業界)から排斥され、自分の王国(撮影所)を失った黒澤は、六ちゃんのように「どですかでん」と唱えることで、辛うじて正気を保っていたのではないか?

しかし、現実は映画のように甘くない。1970年10月に公開された本作は、批評家からは難解、実験的すぎると酷評され、興行的には惨憺たる大赤字を記録した。四騎の会は事実上の活動停止に追い込まれ、黒澤は借金と絶望の淵に立たされる。

そして、映画公開から一年後の1971年12月、黒澤明は自宅の浴槽でカミソリで首と手首を切り、自殺を図る。幸い一命を取り留めたものの、この事件は『どですかでん』という作品に、永遠に消えない「遺書」としての刻印を押すことになった。

今、この映画を見直すと、画面の端々に死の予感と、それに対する必死の抵抗が見て取れる。極彩色の画面は、色あせていく黒澤の生命力を無理やり鼓舞するためのドーピングだったのかもしれない。

『どですかでん』は、黒澤明が一度死に、そして『デルス・ウザーラ』で再生するために通過しなければならなかった、極彩色に彩られた煉獄なのである。

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