危険な年/ピーター・ウェアー

危険な年 [DVD]

まずは、本作のDVDジャケットをご覧いただきたい。

力強い油彩のタッチで描かれたマッチョマン=メル・ギブソンが、麗しき美女=シガニー・ウィーバーをしっかと抱きしめるという、『愛と青春の何ちゃら』、もしくは『愛と追憶の何ちゃら』的な構図である。

故に観客は、かかる艱難辛苦を乗り越えて結ばれる『愛と青春の何ちゃら』、もしくは『愛と追憶の何ちゃら』的なストーリー展開を期待するであろう。独立まもない1965年のインドネシアを舞台に、壮大なラブ・ロマンスが展開されることを期待するであろう。

しか~し、監督のピーター・ウィアーはそんなことは意にも介さない。当時のインドネシアはスカルノの独裁体制下にあり、右翼と左翼の対立による政治的緊張、貧困、餓えといった諸問題が噴出していた。

スカルノ:インドネシアの民族形成と国家建設 (世界史リブレット人)

そんな不安定な政治状況のさなか、オーストラリア放送局の特派員として派遣されてきたメル・ギブソンと、英国大使館の秘書として働くシガニー・ウィーバーが、異国のアバンチュールに身を委ねる。

その描写は毒っ気を含んだ悪意に満ち満ちており、様々な外圧をはねのけて結ばれる恋人同士というよりも、単に頭の悪いバカップルにしか見えないのである。

大使館のパーティーで突如リビドーが燃え上がった二人が、夜間の外出は禁止されているにも関わらずオープンカーで検問を突破し、後ろから雨あられと機関銃を撃ち込まれるにもかかわらず、ケラケラとバカ笑いしながらその場を走り去るという場面の異常さ!!

二人のキャラクター造型は恐ろしいほど浅はかで、観客の共感を一切受け付けない(特ダネのためなら、機密情報を提供したシガニーを窮地に陥れるのもいとわない強欲男メル・ギブソンに、誰が感情移入できるだろうか?)。

本来なら主役の座に鎮座すべき、メル・ギブソン&シガニー・ウィーバーが全く機能しない代わりに、この物語を実質的に牽引するのは、リンダ・ハント演じるフリー・カメラマン、ビリー・クワンである。中国系オーストラリア人である彼(演じているのは女性だが)は、実に複雑で重層的なキャラクターだ。

例えば彼は、「人形を用いた伝統的な影絵芝居ワヤンを知ることが、インドネシアへの理解に繋がる」とメル・ギブソンに説くが、己を神に見立てて人形たちを操るという、スカルノ独裁政権と本質的に同じ構造の影絵芝居にビリー自身も深く拘泥している。

ワヤンを楽しむ

その思いはやがて現実世界をもこの手で操作したいという願望へと変質し、周囲の人間を事細かにリサーチし、ファイリングを行い、挙げ句の果てにはかつて自らプロポーズしてフラれたシガニーとメルをくっつけて結ばせるという、倒錯的行動に至らせるのだ。

だが同時にビリーは高潔な理想主義者でもある。かつて熱烈なスカルノ支持者であった彼は、次第に現在の独裁体制に齟齬を感じるようになり、公然とスカルノ体制を批判。

彼が警察に追われて、高層ビルの窓から身を投げて劇的な死を遂げるシーンは、ある意味でこの作品のクライマックスといってもいい。

しかし、革命のために殉死したビリーとは対照的に、メル・ギブソンはインドネシアの喧噪をよそに帰国に躍起となり、おめおめと(この場合、まさに『おめおめと』という表現がふさわしい)岐路に着く。

うだるような熱気が画面を支配する映画のなかで、何一つ成し遂げられなかったオージー・スター、メル・ギブソン。

以降、死を賭して革命に生きようとするキャラクターを好んで演じるようになるのは、この映画の雪辱戦のような気がしてならない。

DATA
  • 原題/The Year of Living Dangerously
  • 製作年/1983年
  • 製作国/オーストラリア
  • 上映時間/117分
STAFF
  • 監督/ピーター・ウェアー
  • 製作/ジェームズ・マッケルロイ
  • 脚本/デヴィッド・ウィリアムソン、ピーター・ウェアー、クリストファー・J・コッチ
  • 音楽/モーリス・ジャール
  • 撮影/ラッセル・ボイド
  • 美術/ハーバート・ピンター
  • 編集/ビル・アンダーソン
CAST
  • メル・ギブソン
  • シガニー・ウィーバー
  • リンダ・ハント
  • マイケル・マーフィ
  • ビル・カー
  • ポール・ソンキラ
  • ノエル・フェリヤー
  • ベンボル・ロッコ
  • ドミンゴ・ランディホ
  • エルマンノ・デ・ガズマン

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