ファンタジー映画の装いをまとって描く、現実社会で奮闘する女性たちの姿
『ビッグ』(1988年)の脚本を担当したアン・スピルバーグが、スティーヴン・スピルバーグの実妹であることは有名な話だ。
突如30歳の青年に成長してしまった13歳の少年が、生活費を稼ぐ為に玩具メーカーに就職するやいなや、コドモならではの発想で次々とヒット商品を産み出していくという物語は、自由奔放なクリエイティビティーを発揮して、あっという間に映画界の帝王に上り詰めたスピルバーグのサクセス・ストーリーと重なるものがある。
本編の主人公ジョッシュを演じたトム・ハンクス自身、『プライベート・ライアン』(1998年)、『ターミナル』(2004年)に主演したり、戦争ドラマ『バンド・オブ・ブラザース』(2001年)を共同でプロデュースするなど、スピルバーグと公私共に交流がある俳優。
後年『フォレスト・ガンプ』で、アカデミー主演男優賞を受賞したことでも明らかなように、アメリカのイノセンスを体現し得る数少ない俳優の一人でもある。トム・ハンクス=スピルバーグのアバター(分身)という捉え方も、あながちうがった見方ではないだろう。
『ビッグ』のヒロインであるスーザン(エリザベス・パーキンス)は、そんな幼児性・無垢性を受容する母性の象徴として登場する。それはあたかも、『未知との遭遇』におけるマザーシップのごとき存在。
しかし、同時に冷静なリアリストでもある彼女は、トム・ハンクスの「(二人で少年・少女に戻って)一緒に行こう」という申し出を断り、「できないわ。私はもう経験したから。一度で十分だわ。分かる?」と返答している。
それは、『E.T.』(1982年)におけるエリオット少年の「I can’t(一緒に行けない)」とは、根本的に異なるセリフなのだ。
慣れ親しんだ地球、家族と別れることはできないことが“Stay”の理由だったエリオット少年に対し、スーザンはあまりにも現実を知り尽くしてしまったがために、ファンタジーへの越境を拒否して、いまここにいる場所への“Stay”を選択する。
ペニー・マーシャル(監督)、アン・スピルバーグ(脚本)と主要スタッフに女性を配したこの映画では、女性はスピルバーグ的なるものは受容しつつも、自らがスピルバーグ的なものに同化することは拒否して、幕を閉じるのである。
もちろん、「女性の方が男性よりも現実主義者だ」等という使い古された常套句を使う気は毛頭ない。だが『ビッグ』を鑑賞していると、ピーターパン・シンドロームから抜けきれない男性的幼児性を、イノセンスとして受容しっ放しのアメリカ映画(もしくはアメリカそのもの)への、女性側からのささやかな異議申し立てが感じられるのだ。
この映画はファンタジー映画の装いをまといながらも、別の角度から光を当ててみると、現実社会で奮闘する女性たちの姿が浮き彫りになってくる。
ちなみに僕がこの映画で一番好きなシーンは、二人がダンスをしていると、トム・ハンクスが「告白することがあるんだ」と告げ、「なあに?」と聞き返すエリザベス・パーキンスのバスト・ショットである。
この表情が実に自然できらめくように美しいのだが、こういうショットを撮れるのって、やっぱ男性監督ではなく女性監督なんだろうなーと思う次第。
- 原題/Big
- 製作年/1988年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/102分
- 監督/ペニー・マーシャル
- 製作/ジェームズ・L・ブルックス、ロバート・グリーンハット
- 原作/B・B・ヒラー、ニール・ヒラー
- 脚本/ゲイリー・ロス、アン・スピルバーグ
- 美術/サント・ロカスト
- 撮影/バリー・ソネンフェルド
- 衣装/ジュディアナ・マコフスキー
- 音楽/ハワード・ショア
- トム・ハンクス
- エリザベス・パーキンス
- ロバート・ロジア
- ジャレッド・ラシュトン
- ジョン・ハード
- デヴィッド・モスコー
- マーセデス・ルール
- ポール・ハーマン
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