『うなぎ』(1997年/今村昌平)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『うなぎ』(1997年)は、第50回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した今村昌平の後期代表作。妻を殺害した男・山下が刑期を終え、千葉県佐倉市で理髪店を開業する。社会と距離を置き、他者との関係を拒む彼は、唯一の理解者である“うなぎ”とだけ心を通わせる。過去を背負いながらも、彼は新たな人生を歩み出そうとする。
カンヌの奇跡と今村昌平の帰還
第50回カンヌ国際映画祭で、アッバス・キアロスタミ監督の『桜桃の味』と同点タイで最高賞パルム・ドールを受賞した、今村昌平監督の『うなぎ』(1997年)。
この歴史的快挙によって、今村は『楢山節考』(1983年)に続き、世界で4人目の「パルム・ドール2回受賞監督」という映画史に燦然と輝く伝説の巨星となった。
だが、その栄冠の裏側にあったのは、驚くほどの静けさだった。国内の期待値は決して高くなく、カンヌの現地においても、関係者はおろか今村自身ですら受賞を全く信じていなかったという。
結果発表を待たずに早々に日本へ帰国してしまい、晴れの授賞式に監督本人が不在で、主演の役所広司がたった一人でトロフィーを受け取るという前代未聞の珍事が起きてしまった。
世界がこの映画を認めたのは、人間の底知れぬ悪意やドス黒いエゴイズム、社会の最底辺を冷徹なメスで解剖し続けてきた「重喜劇」の老巨匠が、キャリアの最晩年にして、人間の根源的な生への回帰と、限りなく優しい赦しを描いてみせたからではないか。
世界は、今村昌平が到達したこの温かいヒューマニズムを、絶対的なマスターピースとして再発見したのである。
去勢された男のファルス
物語の主人公は、妻の不貞を目撃して逆上し、殺人を犯してしまった男・山下(役所広司)だ。彼は八年の服役を終えて仮出所し、保護司であるかつての小学校教師のもと、千葉県の水郷の町の川沿いで、ひっそりと理髪店を開業する。
彼にはもう家族はいない。事件のトラウマにより、社会的にも生物学的にも、彼は父になる権利を自ら剥奪した存在であり、その重苦しい不全感が映画の全編を支配している。彼は他者と深く関係を結ぶことにひたすら怯え、共同体の中で幽霊のように浮遊し続ける。
家族の崩壊は、残酷なまでに生々しい“去勢”のメタファーとして描かれる。セックスを通じて生を再生できない男。血を分けることができない男。
山下の存在は、バブル崩壊後のポスト戦後日本社会における、男性性の喪失を完璧に体現している。彼の孤独は、まるで生殖機能と活力を停止してしまった日本社会そのものの姿だ。
そんな山下が唯一心を開き、言葉を投げかける相手が、彼が刑務所から大事に連れ帰ってきたペットのうなぎだ。このヌメリとした粘膜質の生き物は、彼にとっての対話者であり、沈黙する代替的な自我であると同時に、彼が失ってしまった男性性(ファルス)そのものの強烈な象徴でもある。
殺人を犯す直接の引き金となったのは、妻が浮気相手と喘ぎながら吐き捨てた「あいつのセックスは裏の幼稚園児並みよ」という、男の尊厳を粉々に打ち砕く決定的な呪いの言葉だった。
つまり、彼は性的能力の欠如を突きつけられ、精神的に去勢された男なのだ。だからこそ“うなぎ”とは、去勢された彼がなお手放すことのできない男の残滓であり、失われた勃起の幻影なのである。
同時にそれは、生命の持つとてつもない再生力の暗喩でもある。泥水の中を地を這い、何千キロも離れたマリアナ海溝の深海まで川を遡り、海へ戻って、誰にも知られずに産卵を果た神秘的な生態。それは、罪を背負った山下の孤独な再生譚と完全に重なり合う。
これは、今村昌平が男の原罪と希望をたった一匹の生き物にド直球で投影した、極めて高度で神話的な寓意の構図なのだ。
血とセックスを越えた究極の救済
死んだように生きる山下の日常は、清水美砂演じるワケありのヒロイン・桂子の登場によって、わずかに、しかし確実に動き出す。
彼女は愛人関係のもつれから自殺未遂を起こし、山下に助けられた過去を持つ。他者との関係を恐れ、深い自己嫌悪に陥っている点で、彼女もまた山下と同質の致命的な傷を抱えた女性だ。
だが、彼女は生を諦めてはいない。理髪店に転がり込み、健気に働きながら、むしろ必死に生きることにしがみついている。山下は彼女からの不器用な求愛を「俺には資格がない」と頑なに拒み続けるが、桂子がかつてのクズな愛人(田口トモロヲ)の子を身ごもっていることが発覚したとき、彼は初めて、自らの意志で父親になる決意をするのだ。
それは、直接的な性的関係を一切介さず、家族という絆を獲得するという、とてつもなく逆説的で崇高な救済。去勢された男が、去勢されたままの状態で、他人の種を宿した女と家族を形成する。
ラスト近く、堂島たちとの乱闘で仮釈放の規則を破り、再び刑務所へ戻ることになった山下が、迎えを待つ桂子に向けてパトカーの中から放つ台詞が印象的だ。
俺のうなぎも、どこで誰の子を産むかわからねえんだ
これは、血の繋がりに依存しない愛、肉体の交わりによらない魂の再生への、高らかな人間讃歌ともいえる。
しかも『うなぎ』には、これまでの今村作品にあった重苦しさがない。この町には、暴力も憎悪もエゴもあるが、それらはすべて愛すべき人間的誤差として、大らかな喜劇のトーンで許容されている。
UFOの交信に人生を懸ける少し頭のおかしい同級生(柄本明)、不器用すぎる元ヤクザの清掃員(哀川翔)、お節介な世話焼き女(倍賞美津子)。彼らが理髪店で巻き起こす小競り合いや、終盤のドタバタの殺傷騒ぎすら、どこか落語のような牧歌的な可笑しみを帯びている。
この町にいるのは、少し変わっている人間たちと、ものすごく変わっている人間たちだ。これこそが、人間の醜さを誰よりも見つめてきた今村昌平が、晩年にようやく辿り着いたユートピアなのだろう。
殺人者であっても、泥水をすすって生きていていい。去勢された男でも、新しい家族を持っていい。性も暴力も、すべては美しい生の連続体にすぎない。
『うなぎ』とは、長年人間の業を解剖し、破壊してきた今村昌平が、自らの手でその傷を優しく包み込み、癒そうとした究極のアンサーなのだ。
- 復讐するは我にあり(1979年/日本)
- うなぎ(1997年/日本)
- 赤い橋の下のぬるい水(2001年/日本)
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