精霊的なものを喚起させる、慎ましやかな傑作
『ミツバチのささやき』(1972年)には、精霊的なものを喚起させる力がある。果てしなく続く空間と時間は、心を揺さぶられるほどポエティックだ。
小屋へ忍び込む少女たちを俯瞰で捉えたショットの、何という空間の広がり。大地と空は密接に繋がり、そこに悠久の時が刻まれている。その息吹を全身に浴びながら、僕らの心はゆっくりと解放されていく。
アナは澄んだ黒い目を大きく見開き、世界を感じようとする。近付く列車の線路に耳をすまし、フランケンシュタインの物語に想いをはせる。
それは、大人の世界に片足を踏み入れた姉イサベルが、「フランケンシュタインの映画は作り話よ。全部嘘なのよ」とミもフタもない事を言ってしまうのと鮮やかな対照を成す。
イサベルの意地悪な嘘や悪戯は、くったくのない子供のそれではなく残酷的ですらある(特に彼女の口元の何と残酷的なことか!)。しかし現実界と自分のフィールドとの間に、合い入れぬ齟齬があることをアナは直感的に知ってしまっている。
「いい子にはいい精霊が来るし、悪い子には悪い精霊が来るのよ」という母のお座なりの教訓話や、毒キノコを足で踏みつぶす父の姿に、彼女は何を感じたか。最小のコミニュティーである筈の「家族」にすら、アナは違和感を感じているのだ。
映像的にもそれは顕著といえる。なぜなら、家族四人が同フレームにおさまっているショットはひとつもないからだ。
家族がテーブルを囲んで食事しているシーンにしても、普通の映画監督ならば四人全員が食事しているマスターショットをインサートし、それから各々のミディアム・ショットを配置していくだろう。しかし、ビクトル・エリセは全景を映すマスターショットを放棄することによって、世界の隔てりをさらりと暗示してみせる。
だから、アナは喋らない。言語によって世界は結びつかない。主人公なのにセリフがほとんどない、という異常事態もこの映画ではアリである。
善きものと悪しきもの、見えるものと見えざるもの、現実的なものと超現実的なもの、彼女はすべてに境界線を敷かないからだ。そこに言語などというコミュニケーション・ツールは不要なんである。
作品では直接的には語られていないが、時代背景は混乱と殺戮を極めたスペイン内乱期(射殺されてしまう脱走兵も、おそらく内乱戦から逃げてきたのだろう)。
戦争という暗い時代を、ビクトル・エリセは穏やかなタッチで淡々と綴る。ここに彼の映画作家としての潔さと、映画としての強度を感じずにはいられない。
僕は最近になって下高井戸シネマのレイトショーでこの作品を見返したんだが、意外にビクトル・エリセはあざとい演出をしていることに気がついた。まあ、彼に対して「あざとい」という表現は不適切だとは思うが、これは本当に大きな驚きだった。
母親が、白煙を吐き出す汽車に向かって画面右上に消えて行くショットや、ベッドのうえで遊んでいるアナとイザベルの“左右対称の構図”の真ん中に、お手伝いのオバサンを配置させるショットの、フレーミングの巧みさ。
映画館で『フランケンシュタイン』(1931年)を一心不乱に見つめるアナを、わざと手持ちの手ブレ映像で捉える=ドキュメンタルな視点を用いることによって、現実界と非現実界を対照せしめる、見事な計算。
また、父親が自宅でソファでくつろいでいると、映画館の『フランケンシュタイン』のセリフが急にオンになって(あんなに近所迷惑な映画館はないと思うんだが)、映画館内の映像に切り替わるシーンなどは、“音”にショットとショットを繋ぐ役割を担わせており、実に計算が行き届いている。
もちろん以上のテクニックが映画的に優れていることに間違いはないんだけれども、エリセはあまり作為的演出をしない監督だという先入観があったので、どうしても表現としては「あざとい」という言葉が浮かんできてしまう。
我々が思っている以上に、ビクトル・エリセの映像的技巧は極めてしたたかなのだ。
- 原題/El Espiritsu De La Colmena
- 製作年/1972年
- 製作国/スペイン
- 上映時間/99分
- 監督/ビクトル・エリセ
- 原案/ビクトル・エリセ
- 脚本/ビクトル・エリセ、アンヘル・フェルナンデス・サントス
- 音楽/ルイス・デ・パブロ
- 製作/エリアス・ケレヘタ
- 撮影/ルイス・カドラード
- 編集/パブロ・G・デル・アモ
- アナ・トレント
- イザベル・テリェリア
- フェルナンド・フェルナン・ゴメス
- テレサ・ジンペラ
- ミゲル・ピカソ
- ケティ・デ・ラ・カマラ
- ラリ・ソルデビリャ
- ホアン・マルガリョ
- エスタニス・ゴンザレス
最近のコメント