『海外特派員』(1940)
映画考察・解説・レビュー
『海外特派員』(原題:Foreign Correspondent/1940年)は、第二次世界大戦勃発直前のヨーロッパを舞台に、アメリカ人新聞記者ジョニー・ジョーンズが国際的な陰謀事件へと巻き込まれていく過程を描くサスペンス映画。政治家暗殺事件の取材のため欧州に派遣された彼は、各国を移動する中で不可解な証言や偽装された情報に遭遇し、やがて国家を超えた陰謀の存在を知ることになる。
匿名性が生む暴力の構図
ヒッチコックは大プロデューサー、デヴィッド・O・セルズニックに招かれ、イギリスからハリウッドへと渡ったが、その最初の成果である『レベッカ』(1940年)は、彼の作家性が全面的に発揮された作品とは言いがたい。
コンウォールを舞台にしたゴシック・ロマン的な陰影は、完成度こそ高かったものの、そこにはヒッチコックが得意としてきた「巻き込まれ型サスペンス」の運動性や、人物と空間の緊張関係を横断的に操る感覚は薄味。
その違和感を振り払うかのように、ハリウッド進出第二作としてヒッチコックが手掛けたのが、バチバチのサスペンス映画『海外特派員』(1940年)だった。
第二次世界大戦勃発直前のヨーロッパを舞台に、正義感に突き動かされる新聞記者が国際的な陰謀へと巻き込まれていくこの物語は、ヒッチコックがアメリカ映画の速度とスケールを本格的に引き受けた瞬間をはっきりと刻み込んでいる。
本作でもっとも印象的な場面のひとつが、アムステルダムの広場で起こる雨の中の暗殺だろう。無数の傘が画面を埋め尽くすこのシーンでは、一人ひとりの顔や輪郭が意図的に見えにくくされ、視覚的な匿名性が強調されていた。
犯人は群衆の中に紛れ込むことで姿を消すだけでなく、自分が「誰であるか」という情報そのものを風景の中に溶かしている。
ここで描かれているのは、巧妙なトリックというよりも、近代社会における暴力のあり方だ。個人が集団の中に埋没することで責任の所在が曖昧になり、行為だけが宙に浮いたまま残される。
その構造が、雨傘という日常的な小道具によって極めて明快に示されていた。このイメージの強度は、後年スティーヴン・スピルバーグが『マイノリティ・リポート』(2002年)で同様の構図を引用したことからも明らか。
ヒッチコックが提示した「群衆の匿名性」という発想は、時代を越えて繰り返し参照される映画的言語となっていた。雨の中の殺人は、物語の導入であると同時に、本作全体を貫く不安の質を端的に示す場面なのだ。
速度と空間が生むアメリカ的ダイナミズム
『海外特派員』がヒッチコックのイギリス時代の作品と大きく異なるのは、そのテンポと運動量。主人公が危機に陥っても、どこか余白を残していた英国作品に比べ、本作では状況が次々と変化し、観客は息をつく間もなく新たな場面へと導かれていく。
風車に閉じ込められる老政治家の場面では、静かな田園風景が一転して密室の罠へと変わり、やがて物語はドイツ軍艦の攻撃、旅客機の墜落という大規模なクライマックスへと突き進んでいく。
連続する見せ場は、ヒッチコック自身が語った「多くのアイディアを詰め込んだ」という言葉を裏切らない。だが、それ以上に重要なのは、彼がアメリカ映画ならではの空間的スケールを自在に操っていた点にある。カメラは人物の表情と世界情勢の危機を同じ画面の中で結びつけ、個人の恐怖と国際的緊張を一体化させていく。
主役にゲーリー・クーパーを起用できなかったという逸話が示すように、当時のアメリカではサスペンス映画は軽く見られていた。その評価とは裏腹に、本作はジャンル映画の枠組みの中で、戦争という現実を運動と緊張として描き切っていた。
神の視線としての脇役
ヒッチコック作品では、物語の中心にいない人物が強い印象を残すことが多い。特に『海外特派員』に登場する英語をまったく解さないラトビア人紳士は、その代表的な存在といえる。
彼は事件に直接関わることはないが、終始穏やかな表情で主人公たちを見守り続け、その視線はまるで物語の行方をあらかじめ知っているかのよう。
言語を持たない彼は、国家や思想の対立から距離を置いた存在であり、その沈黙は、混乱する世界を少し高い場所から眺める視点を象徴している。
ジョエル・マックリーとラレイン・デイが結ばれる運命を察しているかのような佇まいは、偶然が連続する物語の中に、かすかな秩序の感触を与えていた。
彼は裁きも救済も行わないが、ただ見つめ続ける存在として配置されることで、世界が必ずしも人間の理性や正義によって制御されていないことを静かに示している。
結果として『海外特派員』は、アカデミー作品賞を受賞した『レベッカ』以上に、ヒッチコックがハリウッドで自由な作家として歩み始めた瞬間を示す作品となった。
冒険活劇の体裁をまといながら、その内部では匿名性、速度、そして超越的な視線が緻密に組み合わされ、後のフィルモグラフィへと連なる思想的基盤がすでに形を成していたのである。
- 原題/Foreign Correspondent
- 製作年/1940年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/120分
- ジャンル/サスペンス
- 監督/アルフレッド・ヒッチコック
- 脚本/チャールズ・ベネット、ジョーン・ハリソン
- 製作/ウォルター・ウェンジャー
- 撮影/ルドルフ・マテ
- 音楽/アルフレッド・ニューマン
- 編集/ドロシー・スペンサー
- 美術/アレクサンダー・ゴリツェン
- 衣装/I・マグニン
- ジョエル・マクリー
- ラレイン・デイ
- ハーバート・マーシャル
- ジョージ・サンダース
- アルバート・バッサーマン
- ロバート・ベンチュリー
- エドマンド・グウェン
- 海外特派員(1940年/アメリカ)
- 逃走迷路(1942年/アメリカ)
- 汚名(1946年/アメリカ)
- ロープ(1948年/アメリカ)
- North by Northwest(1959年/アメリカ)
