『ゲーム』(1997)
映画考察・解説・レビュー
『ゲーム』(原題:The Game/1997年)は、デヴィッド・フィンチャーが監督を務めた心理サスペンス。冷徹な金融家ニコラスが誕生日に受け取った“体験型ゲーム”によって、現実と虚構の境界を失っていく。予測不能な出来事が連鎖し、彼の人生は制御不能の迷路に陥る。
キャプラの悪夢的反転
デヴィッド・フィンチャーの『ゲーム』(1997年)は、フランク・キャプラの不朽の名作『素晴らしき哉、人生!』(1946年)を、悪意を持って裏返し、泥水に沈めたような映画だ。
「ある事件を契機に、傲慢な主人公が自己を見つめ直し、人生の素晴らしさに気づく」。この古典的で手垢のついたイニシエーションの構造を、フィンチャーは採用したように見せかけて、その実、徹底的に破壊している。
主人公ニコラス・ヴァン・オートン(マイケル・ダグラス)は、投資銀行家として巨万の富を築き、サンフランシスコの屋敷で孤独に暮らす男だ。彼が48歳の誕生日──それは彼の父親が投身自殺をしたのと同じ年齢──を迎えるところから物語は始まる。
冒頭、セピア色のノイズに覆われた8mmフィルムが挿入される。若き日の父と、幼いニコラス。幸せそうに見えるその映像は、しかし不穏な予感に満ちている。
フィンチャーと撮影監督のハリス・サヴィデスは、この回想シーンにおいて、単なるノスタルジーではなく、「メディアによって劣化し、固定化された記憶」の質感を追求した。
粗い粒子、滲む光、断続的な音声。これらは、ニコラスの記憶が、彼自身の内面から湧き上がるものではなく、映像媒体という外部装置によって規定されていることを示唆している。
フィンチャー作品を貫くテーマは常に、「個人の自我は、外部のシステムによって形成(あるいは捏造)される」という、あまりにも冷徹な認識だ。
『ファイト・クラブ』(1999年)が消費社会、『ソーシャル・ネットワーク』(2010年)がデジタル・プラットフォームによる自我の規定を描いたように、『ゲーム』における8mmフィルムは、父の死というトラウマすらも、映像として客観視せざるを得ない現代的な病理を映し出している。
彼にとって過去とは、温かい記憶ではなく、繰り返し再生されることで摩耗したフィルムのような呪いのようなものなのだろう。
弟コンラッド(ショーン・ペン)から贈られたCRSなる謎の会社への招待状。それは、彼を再生させるためのものではなく、彼の人生というフィルムを強制的に編集し直すための、悪魔的プロデューサーからの通達だったのである。
マイケル・ダグラスの去勢
この映画が傑作たり得ている最大の要因は、主人公ニコラス役にマイケル・ダグラスを配したキャスティングの妙にある。
当時(そして今も)、マイケル・ダグラスという俳優が背負っていたパブリック・イメージは明白。『ウォール街』(1987年)の投資家、『氷の微笑』(1992年年)の刑事、『ディスクロージャー』のエリート。彼は常に富と権力と性欲をコントロールする、傲慢な白人男性の象徴だった。
フィンチャーは、この観客の先入観を逆手に取り、残酷な実験を行う。それは、マイケル・ダグラスという強者の記号を、徹底的に陵辱し、剥ぎ取り、無力な子供にまで還元するプロセスだ。
CRSが仕掛けるゲームは、当初は些細な悪戯から始まるが、次第にエスカレートし、彼の全財産、社会的信用、そしてプライドを根こそぎ奪っていく。
1500ドルの高級靴を片方なくし、オーダーメイドのスーツは汚れ、最後にはメキシコの墓場で目覚めることになるニコラス。彼が武器にしてきた金と地位が通用しない状況に置かれたとき、ゴードン・ゲッコーの面影は消え失せ、ただの怯える中年男の姿が露呈する。
これは一種の去勢の物語だ。フィンチャーは、ハリウッド映画が長年崇拝してきた強いアメリカの父権を、ゲームという名の不条理なシステムによって解体してみせる。
CRSという組織の描写も秀逸だ。彼らはどこにでも現れ、テレビ画面から直接語りかけ、日常の風景すべてをセットに変えてしまう。
これは、現代社会における監視資本主義や、現実と虚構の境界が曖昧になる代替現実ゲームの予言とも言える。ニコラスが必死に逃げ回れば回るほど、彼はCRSが書き上げた脚本通りに動かされているに過ぎない。
「役柄=役者=観客」という三層構造を巻き込みながら、フィンチャーは冷笑する。己なんてものは、状況設定が変われば簡単に崩れ去るハリボテに過ぎないのだ、と。
ハッピーエンドという名の絶望
物語のクライマックス、ニコラスは追い詰められ、CRSの職員を誤って(と思わされて)射殺し、絶望のあまりビルの屋上から身を投げる。
ガラス天井を突き破り、彼が落下した先には、巨大なエアマットと、シャンパンを持った友人たちが待ち構えていた。「ハッピー・バースデー、ニッキー!」。
すべては弟が仕組んだ、兄を更生させるための壮大なドッキリだった。死の淵を見たことで憑き物が落ち、父のトラウマを克服し、美しい女性(デボラ・カーラ・アンガー)とのロマンスの予感と共に幕を閉じる。
だが、ちょっと待て。これは本当にハッピーエンドなのか?あのフィンチャーが、そんな安易な救済を用意するはずがない。
ニコラスに請求される、バカ高いゲーム参加費の明細書。彼が死ぬ気で飛び降りたその行為すら、落下地点(エアマット)に着地するように誘導されていたという事実。
つまりこれは、自由意志など存在しないという宣告に等しい。彼が自分で選んで死んだと思った瞬間さえも、CRSの演出の一部だったのだから。
この構造は、映画を見ている我々観客の立場とも重なる。我々はハラハラし、恐怖し、最後に安堵するが、それら全ての感情はフィンチャーによってコントロールされている。
『ゲーム』は、古典的な再生の物語の皮を被った、システムによる調教の寓話だ。フィンチャーはこの映画を通じて、映画というメディアが持つ嘘と操作性を暴露し、それでもなお感動を求めてやまない観客の欲望を、冷ややかに笑う。
エンドロールで流れるのは、ジェファーソン・エアプレイの『ホワイト・ラビット』。ウサギの穴に落ちたニコラスは、二度と元の世界には戻れない。彼が手に入れたのは真実ではなく、真実らしく見えるように調整された虚構としての人生なのだから。
- 監督/デヴィッド・フィンチャー
- 脚本/ジョン・ブランケート、マイケル・フェリス
- 製作/スティーヴ・ゴリン、シーアン・チャフィン
- 製作総指揮/ジョナサン・モストウ
- 撮影/ハリス・サヴィテス
- 音楽/ハワード・ショア
- 編集/ジム・ヘイグッド
- 美術/ジェフリー・ビークロフト
- 衣装/マイケル・カプラン
- セブン(1995年/アメリカ)
- ゲーム(1997年/アメリカ)
- ファイト・クラブ(1999年/アメリカ)
- パニック・ルーム(2002年/アメリカ)
- ゾディアック(2007年/アメリカ)
- ベンジャミン・バトン 数奇な人生(2008年/アメリカ)
- ソーシャル・ネットワーク(2010年/アメリカ)
- ドラゴン・タトゥーの女(2011年/アメリカ)
- ゴーン・ガール(2014年/アメリカ)
- Mank マンク(2020年/アメリカ)
- ザ・キラー(2023年/アメリカ)

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