『ゾディアック』──不解決という構造の美学
『ゾディアック』(原題:Zodiac/2007年)は、1960年代末アメリカを震撼させた連続殺人事件を題材にしたデヴィッド・フィンチャー監督のサスペンスである。暗号文を新聞社に送りつけた犯人を追う記者、刑事、漫画家たちの執念を通じて、未解決事件の深淵とメディア社会の狂気を描く。
殺人の告知としてのメディア──劇場型犯罪の原点
「さあゲームの始まりです」と挑発的に書き送ったのは、神戸の少年・酒鬼薔薇聖斗。だがその前に、“人間狩り”を文字通り娯楽化してみせたのが、1960年代末アメリカの連続殺人鬼・ゾディアックである。
1968年から1970年にかけて少なくとも5人を殺害し、さらに37人を殺したと自称したこの犯人は、犯行のたびに新聞社へ暗号文と手紙を送りつけた。最初の手紙は1969年7月31日付、サンフランシスコ・クロニクルなど3紙に分割して届けられ、そこには「This is the Zodiac speaking(こちらはゾディアックです)」という決まり文句が記されていた。
彼の署名代わりとなった“円に十字”の照準マーク、そして「印刷しなければ殺しを続ける」という挑発。報道機関を共犯者として巻き込み、恐怖を情報として拡散させていく構造こそが、この事件を特異なものにした。
408文字の暗号(通称Z408)は一般人夫妻により解読され、「人を殺すのは楽しい」「自分が死んだら殺した者たちは奴隷になる」という文が読み取られた。続く340文字の暗号Z340は50年近く未解読のままだったが、2020年に解読チームが「I hope you are having lots of fun trying to catch me(私を捕まえようとして楽しんでいるだろう)」という内容を突き止める。
こうしてゾディアックは、殺人を“報道されるべき出来事”として演出し、メディア空間を自らの舞台に変えていった。まさに「劇場型犯罪」という言葉が最も似つかわしい存在である。
この“犯罪と報道の共犯関係”は、ベトナム戦争後のアメリカ社会に漂う不信と倦怠、そしてテレビ・新聞による過剰な情報消費と深く結びついていた。殺人者が暗号を通じてマスコミを操り、メディアが恐怖を商品化する。ゾディアック事件は、暴力と情報が相互に依存し始めた時代――ポスト戦争期アメリカの精神的混乱そのものを象徴しているのだ。
新聞漫画家ロバート・グレイスミスが書き上げたノンフィクション『ゾディアック』はベストセラーとなり、事件は伝説と化す。『ダーティハリー』(1971年)のスコルピオがこの実在犯をモデルにしていることは、もはや映画史の周知事項。つまりゾディアック事件とは、“映画そのもの”の題材であり続けてきたのだ。
フィンチャーの帰還──未解決事件という“構造への挑戦”
この題材を デヴィッド・フィンチャー が手掛ける。その一報を聞いた瞬間、僕は期待と不安の入り混じった高揚を覚えた。『セブン』(1995年)で人間の罪を図式化し、『ファイト・クラブ』(1999年)で暴力とアイデンティティを等価に並べた男が、“犯人不明の殺人事件”をどう語るのか。
だが、彼は予想を裏切る方向へ舵を切る。ジェイク・ギレンホール、ロバート・ダウニーJr.、マーク・ラファロという渋い演技派を揃え、犯罪の再現よりも“それを追う者たちの精神的崩壊”を描く。
つまり、この映画はゾディアックの正体を暴く映画ではなく、“ゾディアックという迷路に取り憑かれた人間たち”を描くドキュメンタリー的群像劇へと変貌させたのだ。
その制作背景には、フィンチャー自身のルーツと綿密なリサーチがある。彼は幼少期をサンフランシスコ・ベイエリア郊外で過ごし、当時は学校バスの後を州道パトロールが追っていたという。
「ある連続殺人鬼が子供たちを標的にすると聞いた」という父の言葉も、彼の映画観に深く刻まれた。この個人的な体験が、単なる“実録サスペンス”への着想ではなく、「見えない恐怖/日常を蝕む異物」に対する映画的探求へと変換されている。
また、フィンチャーと脚本家ジェームズ・ヴァンダービルトのインタビューからは、映画が「情報の積み重ね=調査そのもの」の構造となっていることが浮かび上がる。
ヴァンダービルトが当初150ページ超の脚本を書き上げた際、フィンチャーは「長さを気にするな。みんなに速く話させるだけだ」と語ったという。この言葉に象徴されるように、会話、新聞記事、タイプライターの音──撮影現場の空気そのものが“映画の語り”となっている。
撮影方法もユニーク。フィンチャー自身が「私たちはシリアルキラーが好みそうな映画を作ろうとはしなかった」と断言したとおり、演出は“殺人シーンを派手に見せない”という制御のもとに構築されている。
俳優たちは何十回ものテイクを重ね、演出サポートなしにリアリティある瞬間を追求した。ロバート・ダウニーJr.は後年、「フィンチャーの徹底を知って、彼への敬意が変わった」と述べている。
かくして、本作は“構造への挑戦”として立ち上がる。スリルではなく報道の執念を基盤に、事件そのものではなく「それを追いかける者たちの執着」を映す。カメラは新聞をめくる手、暗号を眺める視線、タイプライターのリズムと同化し、観客を“真相への渇望”という沼へと引きずり込む。
だがその抑制のなかにこそ、フィンチャー的欲望が蠢いている。完璧な再現を目指すリサーチが極まるほど、彼の映像は冷たく美しい異常さを帯びていく。そして、ゾディアックという怪物を描くことが、いつしか“映画という情報の怪物”を構築する行為そのものにすり替わっていくのだ。
フィクションが侵入する瞬間
それでも本作には確かに綻びがある。ドキュメンタリーの中に、突如として“サスペンスの演出”が差し込まれる。たとえば、グレイスミス(ジェイク・ギレンホール)が地下室で元映画技師を尋ねるシーン。
静寂と暗闇が支配するその場面では、観客の心拍数が跳ね上がる──だが、それはこの映画の基調である“報道的リアリズム”とは明らかに異質な瞬間だ。
こうした演出の揺らぎは、“一貫性の欠如”と見ることもできる。だが裏を返せば、そこにこそフィンチャーの二重性が表れている。彼は理性と感情、記録と虚構の境界を行き来し、あえて統一感を崩すことで、ゾディアックの正体不明性──「語られながらも決して掴めない」恐怖──を再現しているのだ。
『パニック・ルーム』(2002年)以降、フィンチャーは意図的に自らの演出スタイルを変化させている。かつてのパンク的暴発や映像的過剰を封印し、構築と制御の方向へとシフトしたのだ。だが、その抑制の奥には、常に“反逆衝動”が燃えている。『ゾディアック』は、そのバランスが最も危うく崩れかけた作品である。
記録映画のように始まりながら、どこかで制御しきれない情念が噴出する。緻密に組まれた編集の隙間から、フィンチャー特有の“過剰な美意識”が顔を覗かせる。
抑制と暴走──その両極の間で映画は揺れ続け、観客をどこへも導かないまま終わる。だが、その“未完性”こそがゾディアック事件の本質に最も近いのではないか。
終わらない捜査──フィンチャー映画の宿命
『ゾディアック』は、犯人を特定しない。結末を与えない。だからこそ、事件は永遠に続く。調査をやめられないグレイスミスの姿は、まさに“映画を終わらせられない監督”フィンチャー自身の鏡像だ。
フィンチャーにとってゾディアックとは、答えのない構造、終わらない編集、支配できない時間そのもの。観客は映画を観終わっても何も解決しない──しかし、その“不解決”の中にこそ、完璧に設計された秩序がある。
『ゾディアック』は完璧ではない。むしろ、その不均衡さが魅力である。ドキュメンタルな抑制と、フィクション的昂揚のせめぎ合い。理性と情熱の交錯。観客をコントロールしきれなかったその“揺れ”こそが、フィンチャーという作家の生き証人だ。
だから私は思う。フィンチャーよ、もっとハジけろ。暴走しろ。秩序を壊せ。完璧さの内側に潜む破壊衝動こそ、あなたの映画の真髄なのだ。『ゾディアック』は完成された傑作ではないが、その未完成の中に、映画の未来が脈打っている。
- 原題/Zodiac
- 製作年/2007年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/158分
- 監督/デヴィッド・フィンチャー
- 製作/マイク・メダヴォイ、アーノルド・W・メッサー、ブラッドリー・J・フィッシャー、ジェームズ・ヴァンダービルト
- 製作総指揮/ルイス・フィリップス
- 原作/ロバート・グレイスミス
- 脚本/ジェームズ・ヴァンダービルト
- 音楽/デヴィッド・シャイア
- 衣装/ケイシー・ストーム
- 編集/アンガス・ウォール
- ジェイク・ギレンホール
- マーク・ラファロ
- ロバート・ダウニー・Jr
- アンソニー・エドワーズ
- ブライアン・コックス
- イライアス・コティーズ
- クロエ・セヴィニー
- ドナル・ローグ
- ジョン・キャロル・リンチ
- ダーモット・マローニー
- リッチモンド・アークエット
- ボブ・スティーヴンソン
- ジョン・テリー
- ジョン・ゲッツ
