2026/4/22

『アンダーグラウンド』(1995)徹底解説|戦争と祝祭が反転する、終わらない寓話

『アンダーグラウンド』(1995年/エミール・クストリッツァ)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー

10段階評価
8 GOOD
概要

『アンダーグラウンド』(原題:Underground/1995年)は、エミール・クストリッツァ監督がユーゴスラビアの激動の半世紀を背景に、地下壕での生活を続ける人々の運命を通して戦争と祝祭の狂騒を描いた歴史寓話。第二次世界大戦の最中、ナチスの侵攻を逃れて地下に隠れた人々が、親友マルコ(ミキ・マノイロヴィッチ)の嘘によって「地上ではまだ戦争が続いている」と信じ込まされ、20年もの間、武器製造を続けながら地下で生き抜く。ゴラン・ブレゴヴィッチによる熱狂的なブラス音楽と、マジックリアリズムを駆使したカオスに満ちた映像表現は、国家の崩壊という悲劇を極上のブラックコメディへと昇華させ、第48回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した。

受賞歴
  • 第48回カンヌ国際映画祭:パルム・ドール
  • 1997年ボストン映画批評家協会賞:外国語映画賞
  • 第70回キネマ旬報(外国映画):第4位
  • 1995年度カイエ・デュ・シネマ:第10位
  • 1996年度映画秘宝:第5位
目次

爆音と硝煙の狂宴

脳髄を直接揺さぶられるような強烈なカオスと、理屈抜きのエネルギー!

カンヌ国際映画祭で二度目のパルム・ドール(最高賞)を監督にもたらしたエミール・クストリッツァの『アンダーグラウンド』(1995年)は、血と暴力とブラスバンドの音楽を巨大なミキサーにかけ、ユーゴスラビアという国家の死体の上にぶちまけたような、狂気のごとき祝祭映画である。

舞台は、ナチス・ドイツによる苛烈な空爆が始まった1941年のベオグラードから、血みどろの凄惨な内戦に至るまでの約50年間。本来であれば正視に耐えない悲劇的な歴史を、クストリッツァは極彩色のブラックコメディであり、けたたましいサーカスへと変貌させてみせる。

冒頭からエンジン全開。酔っ払った主人公たちが馬車の上で銃を乱射し、ジプシー・ブラスバンドが鼓膜を破らんばかりに演奏しながらそれに併走する。

音楽担当のゴラン・ブレゴヴィッチが生み出すウンザ・ウンザという独特の裏打ちのリズムを聞いた瞬間、観客の心拍数は強制的にレッドゾーンへと押し上げられる。

物語の中心となるのは、抜け目のない共産党員のマルコと、直情型で粗暴な親友の電気技師クロという二人の男だ。彼らはナチスへのレジスタンス活動を行い、苛烈な空襲を避けるために仲間たちを引き連れて広大な地下の防空壕へと潜る。

問題は、第二次世界大戦が終わってからのマルコの行動だ。彼は地上で戦争英雄としてチトー政権の中枢に入り込み、権力を握りながら、地下にいるクロたちには戦争はまだ続いていると大嘘をつき続けるのである。

地下の住人たちはマルコの作り話を完全に信じ込み、来る日も来る日も祖国のためにと武器を製造し続ける。その期間、なんと20年。いくらなんでも気づくだろうとツッコミを入れたくなるが、この映画におけるリアリズムとは、教科書的な整合性のことではない。人間の底知れぬ欲望、身勝手な裏切り、そして生きることへの執着が、過剰なまでのマジックリアリズムの演出でスクリーンに叩きつけられる。

戦火の中で動物園が破壊され、逃げ出した象や虎が廃墟の街を彷徨うシーンのシュールレアリスムたるや、まさに悪夢と幻想のコラージュだ。悲劇のど真ん中なのに思わず笑ってしまい、笑っているうちにどこか泣けてくる。

歴史という巨大な嵐の中でもみくちゃにされながら、人間がいかに愚かで愛おしい生き物であるかを、これほどパワフルに描き切った作品は他に類を見ない。

地下室という名のプラトンの洞窟

この映画の構造的な白眉は、なんといっても地下世界(アンダーグラウンド)の設定にある。マルコによって外界から完全に遮断され、偽りの情報だけを与えられ続ける地下の住人たち。

これは単なる奇妙な監禁劇などではなく、クストリッツァが精巧に仕掛けた強烈な国家のメタファーである。この地下の世界は、ヨシプ・ブロズ・チトー大統領による強力な統制下にあった、旧ユーゴスラビアという国家そのものを暗示している。

かつてのユーゴスラビアは、7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家と称されるほど、複雑極まりないモザイク国家だった。

それをカリスマ性で力技で束ねていたのが、チトーである。彼は冷戦下において東側にも西側にも属さない独自の路線を歩んだが、それはある種、国民に外の世界の真実をすべては見せず、独自の国家運営の物語の中に閉じ込める行為でもあった。

映画の中で、地下の住人たちはマルコが定期的に鳴らす空襲警報のサイレンに怯え、彼が語るファシストとの戦いというヒロイックな嘘を信じて生きている。

これはまさに、古代ギリシャの哲学者プラトンが説いた洞窟の比喩の再現。洞窟の中で影絵を見せられ、それを世界の真実だと信じ込まされている囚人たち。彼らにとって、マルコの見せる影こそが現実のすべてなのだ。

だが、クストリッツァの演出が一筋縄ではいかないのは、この悲惨な状況を湿っぽい被害者のメロドラマにしていない点にある。地下の人々は騙されているとも知らずに、そこで盛大に結婚式を挙げ、子供を育て、宴会を開き、歌い、踊る。なんと自前の戦車まで組み立ててしまうのだ。

その底抜けの生命力の逞しさは、地上で政治家として腐敗し、虚飾にまみれた生活を送るマルコや妻のナタリアよりも、よほど純粋な情熱に満ちて生き生きとして見える。

虚構の世界に閉じ込められている者のほうが生命のエネルギーに溢れているというこの強烈な皮肉こそが、クストリッツァが突きつける歴史のパラドックスだ。

やがて映画は、ついに地下の住人たちが地上へと飛び出す怒涛の展開を迎える。しかし、彼らが出て行った先は、ナチスとの戦争が終わった平和な世界などではなく、ユーゴスラビア紛争という新たな血みどろの内戦が始まった地獄だった。

しかも彼らは、それをまだ第二次世界大戦が続いていると勘違いし、偶然撮影されていた戦争映画のセットに本物の武器を持って突っ込んでいくという、ブラックジョークの極致のような凶行に及ぶ。

ここで描かれるのは、何が真実かという知的な問いではなく、自分が信じ込んだ物語のために命すら懸けて暴走してしまう人間の業の深さ。歴史に翻弄される個人の姿は滑稽でありながら悲劇的だが、監督は彼らを決して嘲笑わず、むしろその愚直なまでのエネルギーを祝祭的なリズムで全肯定しようとするのである。

狂騒と哀愁が入り混じるレクイエム

物語の終盤、映画のトーンは一気に混沌の度合いを深め、スクリーン全体が焦燥感に包まれていく。

マルコとクロ、そして彼らが愛した身勝手な女優ナタリア。長年にわたる愛憎と裏切りが入り乱れる彼らの三角関係は、ユーゴスラビアという国家そのものの崩壊とシンクロするように、取り返しのつかない破局へと向かっていく。

車椅子に乗ったマルコは、裏切りの果てに自ら仕掛けた爆薬によって、地下の武器庫ごと木っ端微塵に吹き飛ぶ。クロは内戦の最中に死んだ息子ジョヴァンを追って、深い井戸へと身を投げる。

次々と訪れる主要人物たちのあっけない死の連鎖は、かつて確かに存在した一つの巨大な国が、凄惨な民族浄化の果てに地図上からバラバラになって消滅していくプロセスそのものだ。

しかし、ここで単なる反戦映画として終わらないのが『アンダーグラウンド』が映画史に残る傑作たる所以。普通であれば戦争の悲劇と無意味さを声高に訴えて暗く幕を閉じるところを、クストリッツァは現実の物理法則すらねじ曲げて、あまりにも奇跡的で美しいラストシーンを用意した。

死んだはずの登場人物たちが、銃弾に倒れた者も自死した者も全員生き生きとした姿で、水辺の明るい祝宴に集結するのだ。マルコも、クロも、ナタリアも、地下で過酷な労働を強いられた仲間たちも、過去の恨み辛みなどなかったかのように一つの大きなテーブルを囲み、笑顔で酒を酌み交わす。

「許そう。だが決して忘れない」という重いセリフとともに、彼らが乗った宴の土地は突如としてユーゴスラビアの本土から切り離され、ゆっくりとドナウ河を下って漂い始める。

その孤立した小さな島の上で、彼らはまたしても狂ったように歌い、踊り、ブラスバンドは鳴り響くのだ。このラストカットが放つ、胸を締め付けるような美しさと切なさは筆舌に尽くしがたい。

大地が裂けるという国境の分断を描きながら、そこに生きる人々の魂だけは、音楽と記憶の力によって永遠に結びついているという究極の祈りである。

ユーゴスラビアという国はもう地球上のどこにもない。現実は憎しみによってバラバラに引き裂かれた。けれど、彼らがともに生きた時間、愛した記憶、そして魂の底からあふれ出る音楽だけは、どんな独裁者にも戦争にも奪うことはできない。

クストリッツァはかつて、戦争とは人間の最大のコメディであると語ったという。あまりにも残酷で不条理な現実を前にしたとき、人間が正気を保つための最後の手段は、それを笑い飛ばし、最大のボリュームで音楽を鳴らして踊り狂うことなのかもしれない。

この映画は、絶望の底から放たれる生命の賛歌であり、映画という表現が到達し得る最もカオスで美しいレクイエムなのだ。

エミール・クストリッツァ 監督作品レビュー
ドラマ,戦争