数多くの有名ミュージシャンのプロモを手掛けて名声を博し、意気軒高で演出した映画デビュー作『エイリアン3』(1992年)がおおいにコケて、デヴィッド・フィンチャーもかなりしょげかえったことだろう。
批評家も随分とこの映画をコキおろした記憶がある。デヴィッド・フィンチャーは、『エイリアン』第一作を監督したリドリー・スコットと同系統の生っ粋のビジュアリストだが、傑作との呼び声高いこの1作目と比べて、何が評価を分けてしまったのだろうか。
イギリスの王立美術大学出身のリドリー・スコットは、正統な美の具現者だ。古典ヨーロッパ絵画の素養を十二分に活かし、光と影の魔術師であるレンブラントのごとく、物語をフィックスの「絵」で見せようとする。
彼はクラシカルな資質をもった作家なのであって、さしずめオーケストラを指揮するコンダクターのように流麗に作品を構築する。
『ブレードランナー』(1982年)しかり、『グラディエーター』しかり。生真面目かつ重厚なその作風は、モダンホラーの骨格を持つ『エイリアン』にマッチした。
だがフィンチャーは違う。彼は物語を文字通り「映像」でみせようとする。プロモーションビデオで培われた彼の映像センスは、どこか子供のような無邪気さが充ちている。
才気溢れる彼の演出は、あらゆる場面に趣向を凝らそうとして、映画全体のバランスを壊してしまったのだ。リドリー・スコットがクラシック音楽ならば、フィンチャーはパンクが似合う作家なのである。
しかし、このデヴィッド・フィンチャーというひねくれ者は、それでも自分のスタイルを変えなかった。この『セブン』でも、わざと粒子の荒いフィルム(トライXというシロモノらしい)を使って色褪せた質感を出してみたり、タイトルクレジットを逆転させてみたり。
ノイズ感覚溢れるパンクな演出ぶりは、あいも変わらず。オルタネイティヴなクリエイター魂が『セブン』では炸裂している。
「七つの大罪」をモチーフにした猟奇連続殺人事件を、グロテスクというよりはアートにまで昇華させたセンスはビジュアリストとしての面目躍如。
ブラッド・ピット、モーガン・フリーマンに典型的な師弟コンビという役柄を与えているのは、最近の刑事物の黄金パターンだ。
しかし普通なら、博学な師匠に弟子が感化されて心酔するものだが、この映画では最後まで二人の人生観・価値観はスレ違いのまま終わる。アンドリュー・ケビン・ウォーカーに手による脚本では、それぞれのキャラクターの価値観が融和することはなく、孤独な存在として浮かび上がるのだ。
都市の闇の部分をも描き出した『セブン』は、現代という救いのない時代を辛辣に綴っていく。
カタストロフ的ともいえる悲劇的なラストは、濃厚に終末感を漂わせていて、まさに世紀末までカウントダウンに入った’90年代の遺産ともいうべき仕上がり。そのヒリヒリするような手触りに、僕は何度もアクセスしたくなってしまうんであるが。
- 原題/Seven
- 製作年/1995年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/126分
- 監督/デヴィッド・フィンチャー
- 製作/アーノルド・コペルソン、フィリス・カーライル
- 製作総指揮/ジャンニ・ヌナリ、ダン・コルスルッド、アン・コペルソン
- 脚本/アンドリュー・ケビン・ウォーカー
- 撮影/ダリウス・コンジ
- 音楽/ハワード・ショア
- 特殊メイク/ロブ・ボッティン
- 編集/リチャード・ブランシス=ブルース
- ブラッド・ピット
- モーガン・フリーマン
- グウィネス・パルトロー
- ジョン・C・マッギンレー
- リチャード・ラウンドトゥリー
- R・リー・アーメイ
- マーク・ブーン・Jr
- ダニエル・ザカパ
- アンドリュー・ケビン・ウォーカー
- ジョン・カッシーニ
- ボブ・マック
- ピーター・クロンビー
- ケビン・スペイシー
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