『ライオンと呼ばれた男』(1988)
映画考察・解説・レビュー
『ライオンと呼ばれた男』(原題:Itinéraire d’un Enfant Gâté/1988年)は、クロード・ルルーシュ監督が「幸福の定義」を穏やかに問い直す感傷的ロードムービー。成功と名声を手にしながらも心が摩耗し、すべてを投げ出した男サミーは、偶然出会った純朴な青年ジャン=ポールに自分の面影を見いだし、共に旅へ出ることになる。逃避と再生が交差する旅路を通して、ふたりの距離はゆっくりと変化し、やがてサミーは人生の“第二幕”へ踏み出す勇気を取り戻していく。ルルーシュ特有のセンチメンタリズムが漂う、成熟した大人のための人生ドラマ。
断絶から始まるアイデンティティの構造
映画ファンとして恥ずかしいと言われても仕方ないが、自分はクロード・ルルーシュの代表作『男と女』を四十路に入るまで観ていなかった。主題歌「ダ・バ・ダ・バ・ダ…」の有名さがむしろ身構えを生み、長らく距離を取っていた。
しかしジャン=ポール・ベルモンドを主演に迎えた『ライオンと呼ばれた男』を観たことで、ようやくルルーシュのフィルモグラフィに踏み込むことになる。意外にも入口は、監督の黄金期ではなく、人生の後期に位置する異色作だった。
主人公トム・リオンは幼くして母に見捨てられ、サーカス団に拾われる。この“家族以前の共同体”という設定がすでに彼の存在を規定している。サーカスという世界は、定住と安定を前提にしない。
常に移動し、光と影が循環し、観客の視線が揺れ続ける空間だ。そこでは物語の中心は固定されず、人物の輪郭も仮のものとして扱われる。トムはその中で育ち、ショウビズの世界に身を投じるが、不測の事故によって表舞台から外され、裏方の清掃係へ回される。
だがその“逸脱”こそが彼の人生の常態であり、役割の断絶を恐れない性質が生まれる。やがて清掃業で成功したトムは、何の前触れもなく家族・仕事すべてを捨て、ヨットで大西洋へ消える。
彼が選ぶのは成長ではなく“断裂の連続”だ。人生の節目ごとにロールバックし、以前のアイデンティティを切り捨て、別の役割に乗り換える。この構造はルルーシュの映画全体に通底する“運命の気まぐれ”にも見えるが、『ライオンと呼ばれた男』ではより露骨に、主人公の存在そのものを空洞化していく。
観客は彼の内面へアクセスしようとするが、トムは断片的な行動を重ねるばかりで、心理の継続が見えてこない。サーカスの流動性が人生全体に拡張され、トムは常に“次の場所”へ移動し続ける影のような存在となる。
これはキャラクターの欠陥というより、ルルーシュが人生を“連続した物語”ではなく“出来事の断片”として捉えているからこそ生まれる表現なのだ。
ルルーシュ演出が生む不安定な視線の構造
本作を支配しているのは、ルルーシュ特有のバストショットと横パンの反復だ。カメラは人物の周囲を滑るように移動し、定点を作らない。通常、人物の心理を深掘りするためには、固定ショットや焦点の定まった構図が必要になるが、本作ではその場の空気が“流れて”しまう。
ショットが移動し続けるため、登場人物の感情がどこにも留まらない。シーンの情緒や緊張が積み上がる前に画面がスライドし、別の角度へと逸れていく。結果として、観客が人物に近づく前に関係性が流出してしまう。
この不安定さは物語の過密さと相まって、場面の意味を定着させない方向へ働く。トムの過去、清掃業での成功、失踪、青年アルとの邂逅、会社再建、娘ヴィクトリアの恋心──これら大量のエピソードが次々に投入されるが、ショット構造が安定しないため、物語が“積み上がらない”。
さらに問題なのは、場面転換ごとにフェルナンド・レイがバラードを歌い出す唐突さだ。ミュージカルではないのに歌唱が差し込まれ、物語の流れが中断される。
音楽によって情緒が深まるどころか、むしろ“切断線”として働き、積み上げられるべきドラマを解体してしまう。映像編集もまた連続性を重視せず、ショット同士が意味を共有する前に繋ぎ変わるため、観客は人物の心理軸を追いきれない。
視点は常に揺らぎ、物語は常に逸れる。ルルーシュの自由奔放な撮影スタイルは、時に詩的な雰囲気を生むが、本作では人物造形の基盤を欠き、むしろ“観客が主人公に近づけない”という逆機能として作用してしまう。
トム・リオンが何を思い、何を望むのか──その中心へ辿り着く前に画面が横滑りしてしまうのだ。
過剰なモチーフが物語の核を溶かす
『ライオンと呼ばれた男』には象徴的なモチーフが数多く仕込まれている。
サム(トム)の思い出の赤いジャケット、レオン=ライオンという名前の由来、長女ヴィクトリアのファザコン的傾向、息子がゲイらしいという暗示、青年アルが“操られる存在”として会社再建に駆り出される構図。
これらは本来、人物の深層や物語の寓話性を強化できる要素だ。しかし本作では、これらが“配置されるだけ”で、十分な掘り下げに至らない。象徴が多すぎるため、それぞれの意味が薄まり、物語の中心がどこにあるのか曖昧になる。
トムの過去と現在、親子関係、労働と成功の構造、自由への逃走──すべてが一度に提示され、どれも未完のまま進行するため、主題が分散する。ルルーシュは本来、人物の偶然性を生かしながら“人生の不可解さ”を描く監督だが、本作ではその手法が裏目に出てしまう。
断片を積み重ねるはずが、断片が互いに干渉し、中心線がぼやけてしまう。トムの大西洋への失踪は自由への跳躍であると同時に、家族と社会を統合する意志の放棄でもある。
しかし映画は、その“跳躍の意味”を掘り下げず、再び別のエピソードへ移行してしまう。青年アルとの関係も、“操られる者”という寓話として成立しうる構図なのに、物語は恋愛劇へ横滑りし、焦点が移ってしまう。
象徴・設定・関係性──そのどれもが“傑作になり得る手札”を持っているにもかかわらず、すべてを同時に打ち出したがゆえに、中心のドラマが希薄化してしまうのだ。
可能性の総量が大きいほど、映画は逆説的に“空洞化”していく。映画全体に“成立寸前の気配”が漂う一方、決定的な深さへ到達しない。惜しい、という言葉では片づけられない構造的な問題がここにはある。
- 原題/Itineraire D'un Enfant Gate
- 製作年/1988年
- 製作国/フランス、ドイツ
- 上映時間/127分
- ジャンル/ドラマ
- 監督/クロード・ルルーシュ
- 脚本/クロード・ルルーシュ
- 製作/クロード・ルルーシュ、ジャン・ポール・ベルモンド
- 撮影/ジャン・イヴ・ル・メネール
- 音楽/フランシス・レイ
- ジャン・ポール・ベルモンド
- リシャール・アンコニナ
- マリー・ソフィー・L
- ダニエル・ジェラン
- リオ
- ライオンと呼ばれた男(1988年/フランス、ドイツ)
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